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Posted by TI-DA at

2011年05月19日

戦世(いくさゆー) 162

金武町金武 金武鎮魂碑 後編
金武町の中心にあたる、金武公会堂の建屋脇。
敢無き抵抗に、多くの犠牲を払った第22震洋隊の慰霊碑。

制空海権の奪われた南西諸島に於いて、槍の良し悪しを問う暇はなく、僅かな可能性に賭け全てを用いるしかなかった。
件の「震洋」自体、ガソリンエンジンを使用する事による過熱発火、爆発の危険性、更には外洋に於ける凌波性の低さと、欠陥を抱えての実戦投入。 艇の速力、運動性能は低く、標的は輸送船艇に限定。 しかし、作戦実施に欠かせない索敵、通信能力の低さが、始終付きまとう。
小型の震洋艇では搭乗員の眼高は低く、常にうねる太平洋の波間、そこを上下しての夜間索敵は非常に困難である。 加えて陸上監視哨からの情報や誘導を得る無線設備の搭載もない。 時々刻々と航走する敵艦艇を10数ノットの低速で追従と、会敵の機会も意の如く得られない。
しかし、海軍沖縄根拠地隊司令は、その性能を知ってか知らずか、非常に期待していたと云う。 手中に航空機、艦船はなく、押し寄せる敵艦艇に抗う為、切望した「槍」のひとつであった。

昭和20年3月27日、上陸前空襲に揺れる沖縄島では、西海岸、並びに港川沖合いに敵艦船が蝟集。 その夕刻、運天の第27魚雷艇隊と共に、第22、第42震洋隊へも出撃命令が下る。 各隊6杯の艇を壕から泛水し、頭部装着(250キロ爆薬の搭載)を進める。 搭乗員は指揮者を含め7名が選抜され、22時に金武を後にした。 金武から港川沖まで、平安座の西を抜けて20マイル/2時間弱だが、地文、沿岸の航海経験も浅く、伊計の東を廻っての27マイル/2時間強を航進した。 しかし、会敵の機会はなく全艇が帰投。
同29日夜、第42震洋隊 15杯が出撃するも会敵出来ず。 しかも夜明けに敵艦載機の攻撃を受け、各艇中城湾へ避航し、同隊は壊滅。
同30日夜、前夜の帰還者からの情報に基づき、第22震洋隊隊長は、独断専行で12杯を中城湾へ出撃させる。 しかしこれも空振りに終わり、その上、天明により艇の格納が出来ず、海岸線に擬装するも敵機に発見され、全艇が破壊される。
敵上陸後の4月3日夜、再び出撃命令を受けるが、連日の空襲に基地周辺は荒れ果て、泛水作業に手間取る。 この日は隊長自ら5杯の震洋を率いて出撃。 金武湾沖の敵影に1杯が突入し大破、後に沈没。 これが沖縄の震洋隊、最初で最後の戦果であった。

4杯の震洋は基地へ帰還するが、攻撃再興の機会は失われていた。 北上する敵地上軍に備え陸戦への移行が命ぜられ、震洋隊は艇、基地を破壊・放棄して名嘉真岳へ転進。 1月の沖縄進出、そして8月28日、下山し、中川で武装解除を受けるまでに、海上、山岳戦で76名の隊員が戦死した。
隊長は生還を負い目とし、死期を失したことを悔やんだと云う。 その感情に整理が出来たのは、戦後22年目の頃。 金武鎮魂碑の建立も、同氏が私財を投じての事である。

現在、金武震洋隊の基地跡は、金武火力発電所の敷地内に在り、バイパス建設等の開発と併せ、秘匿壕も破壊されたと思われる。 基地跡の沿岸には、原料桟橋のドルフィンが伸び、コンクリートで固められた上等な漁港が、防波堤に囲われている。 煌めく渚だけであろう、ここが戦いの海であった事を記憶する者は。

 震洋基地跡から望む金武湾
かつての浜は埋立てに消え、海は沖合いに遠ざかり、秘匿壕の在った斜面も、造成に消滅したと思われる。
2004年訪れた際/ テロ対策が厳格に為され、敷地内への臨時立ち入りは厳しい。


 金武鎮魂碑 (2010年1月撮)

  
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タグ :金武町


Posted by 酉 at 12:00Comments(0)景 色

2011年05月18日

戦世(いくさゆー) 161

金武町金武 金武鎮魂碑 中編
金武町の中心にあたる、金武公会堂の建屋脇。
敢無き抵抗に、多くの犠牲を払った第22震洋隊の慰霊碑。

第22震洋隊は、昭和19年10月25日、長崎県川棚の臨時魚雷艇訓練所に於いて編成、練成される。
川棚の訓練所は、沿岸局地防衛に用いる魚雷艇隊の練成を目的とし、同年5月に開設。 しかし、肝心の魚雷艇の建造、そして性能までもが思うに任せず、艇隊の編成は遅々とする。 時代はそれに代わり、「震洋」を始めとする、「回天」「伏竜」等、体当たりを主体とする特別攻撃隊の編成、練成が占める事となる。
苛烈な訓練だったと云うが、それより僅か2箇月余の後、第22震洋隊は佐世保へ集結。 輸送船「豊栄丸」の船上に移った隊員、艇、基地物件は、昭和20年1月12日、佐世保を出港し、那覇へと向かった。

沖縄へ無事進出を果たした艇隊は、1月26日、配属地の金武村へ到着する。 興亜会館(現金武公会堂)を隊本部、宿泊地とし、艇、並びに基地物件格納用の壕掘りに明け暮れる。 艇の秘匿壕は、泛水の容易な海岸近くを選定し、人力での掘削。 設営隊の要員もこの頃は手が回らず、作業には震洋隊々員の他、地元の婦女子青年団、大宜味出身者の防衛隊員を動員して行われた。 全長5メートル、幅1.5メートル余の艇ながら、50杯と云う数、そして船首に搭載する炸薬、燃料の収容場所など、時を貸す余裕はなかった。

敵上陸の前、沖縄の震洋隊へ悲劇が見舞う。
同年3月10日、沖縄進出途上の輸送船が海没し、後発の第42震洋隊は、艇の2/3を失う。
その4日後、第22震洋隊は、一部艇を壕内へ搬入する際、久しく行っていなかった洋上訓練を実施。 しかし昼間訓練を行う艇隊は、運悪く敵機と遭遇し攻撃を受ける。 B-24の銃爆撃に、支援の大型発動艇、震洋5杯が沈没、或いは破壊され、そして19名もの搭乗員の命が、特攻出撃の前に失われた。
翌日、金武観音寺から昇る荼毘の煙は、途絶えることがなかったと云う。

 供華に埋れる慰霊碑


 金武の町並みと金武湾
金武公会堂隣接の広場、高台から見下ろす金武の町並み、そして遠方は金武の海。 観音寺は、撮影場所の傍ら、右下手にあり、鍾乳洞で著名な処である。

  
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Posted by 酉 at 12:00Comments(0)慰霊碑

2011年05月17日

戦世(いくさゆー) 160

金武町金武 金武鎮魂碑 前編
金武町の中心にあたる、金武公会堂の建屋の傍ら。
 敢無き抵抗に、多くの犠牲を払った第22震洋隊の慰霊碑。

那覇より国道329号線を北へ向け金武町へと向かう。 東海岸には程遠い場所を北上するが、石川岳を仰ぐ頃には海岸沿い、車窓からは金武湾の水面が輝く。 道路から望む屋嘉ビーチは、米軍統治の名残り。 しばらくすると右手には、ホテルゴールデンサンビーチ。 味のあるホテルと思ひ、いつも道すがら仰いでいたが、縁もなく閉館したと見える。 やがて針路は東へと廻り、陽射しが目に入る頃、キャンプハンセン(FAC6011)のフェンスとともに、金武の中心街へ到着する。
金武の旧道、生活道であろうか、二又の交差点を「金武観音寺」方面へ逸れると、住宅街へと入る。 件の観音寺を過ぎると、目的地の金武公会堂が、坂の下に見えてくる。

昭和20年1月23日、1杯の輸送船が那覇港へ入港した。 佐世保から輸送された物件、船倉には秘匿名「マルヨン金物」、通称を「震洋」 と呼ばれる爆装特攻艇50杯を積載。 艇隊員/基地員180名とともに、第22震洋隊は沖縄進出を果たす。

装備する艇は、陸軍の「マルレ艇」とは異なり、当初より体当たり攻撃を目的に設計、製作された。 艇首に250キロの炸薬を搭載し、指揮官艇以外は乗員1名での運航。 合板の艇体には、トラック用のトヨタ製ガソリンエンジンを主機に据え、最高速力は20ノット程度と、第27魚雷艇隊の用いた乙型魚雷艇等と同じく、速力は駆逐艦に劣る。
第22震洋隊は、艇を金武村へ廻航し、陸上へ引き揚げて隠匿。 隊員は興亜会館、現在の金武公会堂を宿泊施設として接収し、基地施設の構築を開始した。

 旧興亜会館(金武公会堂)
第22震洋隊の本部、そして宿泊施設として接収された旧興亜会館。 ガジュマルばかりが大きく写ってしまったが、鎮魂碑は正面玄関左手に据えられる。


 金武鎮魂碑
手入れの行き届いた慰霊碑は、一見すると、集落のそれかとも思える。
金武村は、戦禍による破壊をあまり受けていない為、近隣には戦前の忠魂碑征露記念碑が遺る。

  
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タグ :金武町


Posted by 酉 at 12:00Comments(0)慰霊碑