2010年01月05日

戦世(いくさゆー) 12

与那原町 (馬天)射堡指揮所 2
与那原町 板良敷の斜面に残る、射堡の指揮所跡、その内部。
佐世保海軍施設部の指揮下、住民の勤労動員とによって建設された。

明治来、中城湾 馬天沖は、海軍水上部隊の泊地、後方基地として利用されて来た。 その為、南城市(旧佐敷町)新里の山中に煉瓦造りの貯水槽を設け、泊地へ寄港する艦艇への給水に用いられ、他にバンカーも行っていた。 今でも貯水/濾過槽の残骸は、山中の藪中に見る事が出来る。
その後、海軍は沖縄(南西諸島)の防備を強化する中、馬天港に突堤型の仮桟橋を築造し、水上機の基地建設を行っている。 水上機基地とは云っても、引き揚げスリップ、補給機材の格納庫程度の中継基地で、現在はその痕跡も見られない。

この様に海軍は古くより周辺を測地し、地利、海象にも明るく、米艦船が中城湾へ侵入した際の、魚雷攻撃適地と選定されたものと思われる。

指揮所はかまぼこ型、コンクリート製で50センチ前後の厚さがあり、堅固な耐弾性を持たされている。 北面に出入口が有り、塹壕(交通壕)によって魚雷調整壕と連絡されていた物と思われるが、今は埋もれ、出入口も半ば埋まっている。
内部は2メートル四方の広さ/高さで、測的担当者3名程度と機材が限界と思われる。
要の展視口は東側を向き、1メートル強の高さ、傾斜は無く水平15センチ、東側一面に開口。 現在は木々と住宅に遮られているが、かつては勝連半島から知念半島の水平線を一望出来た物と思われる。

 外部からの展視口
 分厚いコンクリートの様が見て取れる。
戦世(いくさゆー) 12

 出入口外観
 かつての交通壕は崩落し、併せて出入口も半没している。
 粗製乱造ではないコンクリートの微妙な曲線が、不思議に思える。
戦世(いくさゆー) 12



タグ :与那原町

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