2010年01月06日

戦世(いくさゆー) 13

与那原町 (馬天)射堡指揮所 3
与那原町 板良敷の斜面に残る、射堡の指揮所跡と設備全容。
佐世保海軍施設部の指揮下、住民の勤労動員とによって建設された。

射堡の全容は、「指揮所」の他に横穴式の「魚雷調整壕」2本を斜面北寄りに構築。 各々の壕に6本の魚雷を格納し、連絡壕で繋いでいた。 班員の生息壕は、西寄りの丘陵上に設けられていた。
海岸端まで敷設された魚雷発射用のレールは、全長300メートル程となる。 現在は住宅地となっているが、当時は黍や芋畑であった。 そして、海岸近くには、手動のレール切り替えポイントを設置。 魚雷発射方向を米艦船の侵入航路と想定される、中城湾リーフの切れ目の勝連半島先端、中央、付根の3箇所に定められた。

昭和20年に入る頃には、魚雷、調整機材の搬入、班員の編成も完了したものと思われ、壕内で魚雷を磨く海軍将兵の姿が、付近住民に目撃されている。  人員の編成は不明であるが、艦艇での水雷担当経験を有する兵科士官/下士官と、航空魚雷調整班を再編成した調整班と支援人員、40名程度と思われる。

心許無い装備ではあるが、劣勢の日本軍、武器のない沖縄島に於いて、沖合いを遊弋する米艦船に対抗出来る、数少ない兵器であった。 その為、陸に在って航空機も無い「沖縄方面根拠地隊司令部」は、第2蛟龍隊、第27魚雷艇隊、震洋隊と合わせ、期待をしていたものと思われる。

海軍の沖縄防備の遅々たる進捗は、現場「第37魚雷調整班 戦時日誌」に、痛切な思いが僅かながら綴られている。 雷撃機の魚雷整備を主任務とする「第37魚雷調整班」(班員/10月末121名)は、大分での訓練部隊の支援から、昭和19年7月27日、小禄基地(那覇)と沖縄北基地(読谷)へ進出。 10.10.空襲の戦訓の末尾、「本班ノ如ク敵上陸ノ算大ナル地点ニアル部隊ニ対シ火器ノ数小量ナルハ遺憾トスル処ナリ」 と。
現場との乖離は消えず、海軍部隊の多くが「槍部隊」として地上戦を戦った事は、皆人知る処である。

構築、配備を終えた「馬天射堡」は、昭和20年4月1日の米軍上陸を迎え、早くもその1週間後、真価を発揮する時が来た。

 指揮所 展視口から差し込む外光
戦世(いくさゆー) 13

 指揮所内部の様子
丁寧に構築された型枠の跡が見て取れる。
土砂の流入も少なく、使途の無い空間は、ヤールーの棲み家となっていた。
戦世(いくさゆー) 13



タグ :与那原町

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