2014年11月30日

沖縄に潰えた軍旗 12

歩兵第22聯隊 12
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
(都屋海岸の聯隊砲陣地 3)

昭和19年8月1日、 門司港 に於いて歩兵第22聯隊(山3474)を含む第24師団(山兵団)主力を乗せた船団は、同月5日朝 無事に金武湾へ入港を果たす。 同年6月29日には富山丸(カタ412船団)が撃沈され、独立混成第44旅団主力3,627名、乗員・船砲隊76名が犠牲(JSU)となっており、既に東シナ海は敵潜の跳梁する危険な海であった。 船団には海上護衛隊による護衛もあったが、この時は台風の荒波を衝いての航行が奏功し、敵潜による襲撃はなかった。 しかし甲板上を洗う波浪により聯隊の兵1名が行方不明になったと記され、平時であれば避泊する大時化であった事が想像出来る。

その輸送船団はモ05船団と称され、和浦丸、暁空丸、對馬丸を含む輸送船7杯、護衛艦艇を含め10杯余の船団であったと見られる。 件の輸送船3杯は、こののち上海の呉淞へ回航され、第62師団(石兵団)将兵を乗せて沖縄・那覇港へ(609船団)。 そして次航の長崎向け、ナモ103船団として沖縄の疎開者等 約4,400名を乗せ、昭和20年8月22日 那覇を出港。 しかし翌日、 對馬丸 は野辺への道を辿ることとなる。

金武湾へ入港した船団だが、当時は桟橋設備などは全くなく、錨泊する沖合から暁部隊の操る大発、艀によって上陸するより術はなかった。 しかし台風のうねりに翻弄され、将兵の移送上陸は危険と判断、船団を那覇港へ回航する事となる。 金武湾では聯隊長と大隊の設営将校、そして聯隊旗が上陸、聯隊の守備地区である読谷山村(現:読谷村)へ先行した。 師団将兵、及び武器弾薬、車輛馬匹等は同5日夕刻から6日に掛けて上陸、揚陸を完了。 聯隊の将兵は若狭の開洋会館と久米の上之山国民学校(現:上山中の敷地)に分宿、併せて軍医長は当時近郊に在った銭湯2軒を借り上げ、将兵の長旅の疲れを流させた。

 岩場に遺る銃眼
汀はコンクリートに埋められ、漁船の引き揚げスリップに変わっている。
漁船の片隅には、今も聯隊砲の据えられた銃眼が深い闇を見せている。
沖縄に潰えた軍旗 12

 銃眼
コンクリートで成形された銃眼は、火を噴く事はなく、敵弾を浴びる事もなく今に伝わる。
沖縄に潰えた軍旗 12

※地図は 沖縄に潰えた軍旗 11 追記をご覧下さい※


タグ :読谷村

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