2014年12月07日

沖縄に潰えた軍旗 14

歩兵第22聯隊 14
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
(都屋海岸の聯隊砲陣地 5)

昭和19年8月、第32軍の沖縄本島防衛計画の中で、敵の上陸予想地点は第一を読谷山村から北谷村の海岸線に想定していた。 第24師団(山兵団)は中頭地区に在って、師団司令部を△163.3高地(ビオスの丘南西、恩納村・うるま市の境界附近)に置き、歩兵第32聯隊(山3475)を残波~真栄田岬間、歩兵第89聯隊(山3476)を金武湾石川地区、歩兵第22聯隊は読谷山村~北谷村間の敵上陸に各々対応、機を見て兵力を集中し、上陸軍を撃滅する計画であった。
歩兵第22聯隊(山3474)は、8ヶ月後の敵上陸正面に位置した訳だが、この時その悲愴な最期を知る由もなかった。 将兵は築城に専念し、訓練を離れて安堵し、県民は地区、集落の組織を通じて作業に動員され、戦雲に怯えたと云う。

歩兵第22聯隊は師団で唯一、実戦経験を持つ将校を多数抱えていた。 その多くは愛媛県出身者で、かつて第11師団(善通寺)の隷下、日中戦争に出征した第一線を預かる小隊長、中隊長であった。 聯隊が敵上陸の可能性の極めて高い海岸正面に配されたのは、師団長より斯様な資質を買われての事と見られる。

今そこを海岸と表記しても目を疑う景色ながら、記録には都屋海岸と遺されている。 海面はケーソンに囲われ、コンクリートの漁港が築造され、その面影など失われているが、かつて岩場の間には海岸と称される浜が有った。 浜を遮る様に沖へ突き出た岩場、その海蝕洞を利用し、陣地は築かれている。
地元である読谷村の記録にも、その陣地についての詳らかな記述は見られない。 そればかりか「山部隊の移動後(※昭和19年12月以降)、阿波根に居た将兵がトーチカ構築にあたったと思われる」などと、誤った記録も見られる。 この都屋海岸、楚辺吉川原海岸に陣地を築いた部隊は、歩兵第22聯隊 聯隊砲中隊第3小隊であった。

 坑道内部
内部は頭上を気にしつつも、立って回れる高さがある、しかし壕内にはゴミが散乱し、これと云って見るべきモノは、荒んだ人の心だけである。
沖縄に潰えた軍旗 14

 海側の展視口
海面を観測する場所であったと思われるが、外部から半ばを潰され、景色を望む事は出来ない。
沖縄に潰えた軍旗 14

※地図は 沖縄に潰えた軍旗 11 追記をご覧下さい※


タグ :読谷村

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