2015年01月19日
沖縄に潰えた軍旗 18
歩兵第22聯隊 18
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
(楚辺海岸の聯隊砲陣地 1)
昭和19年8月、歩兵第22聯隊 聯隊砲中隊 第3小隊は、読谷山村の水際、都屋に布陣。 同小隊の砲座は、 都屋海岸 の南方至近、楚辺にも残存する。 聯隊砲の小隊は 2コ分隊で編成され、1コ分隊は1門の41式山砲を有し、同小隊何れかの分隊が砲を据えたものである。 楚辺の砲座位置は 楚辺 慰霊之塔 の海側、海岸端の岬、都屋と同じく海蝕洞を利用して設けられている。
砲座は通称を 「楚辺海岸のトーチカ」 或いは 「楚辺の陣地壕」 などと呼ばれ、巷間に知られる戦争遺跡である。 しかしこちらも都屋の砲座と同様、構築部隊の仔細は村の正史に遺されておらず、陣地に退路の無いことばかりが殊更強調されている。
補給の困難な 孤島の戦い は何処も同じ、数日を生き延びても6月23日へと繋がっている。 生還すれば卑怯者、死を覚悟すれば愚か者、実に沖縄戦に投入された将兵、その評価は哀れなものである。
楚辺海岸への岩場
楚辺集落の外れより、胎内潜りの様な岩穴を抜け、楚辺海岸へと降り立つ。
楚辺海岸
残念ながら雨模様の楚辺海岸。
しかし都屋とは異なり、ここには海岸と呼べる景色が残っている。
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
(楚辺海岸の聯隊砲陣地 1)
昭和19年8月、歩兵第22聯隊 聯隊砲中隊 第3小隊は、読谷山村の水際、都屋に布陣。 同小隊の砲座は、 都屋海岸 の南方至近、楚辺にも残存する。 聯隊砲の小隊は 2コ分隊で編成され、1コ分隊は1門の41式山砲を有し、同小隊何れかの分隊が砲を据えたものである。 楚辺の砲座位置は 楚辺 慰霊之塔 の海側、海岸端の岬、都屋と同じく海蝕洞を利用して設けられている。
砲座は通称を 「楚辺海岸のトーチカ」 或いは 「楚辺の陣地壕」 などと呼ばれ、巷間に知られる戦争遺跡である。 しかしこちらも都屋の砲座と同様、構築部隊の仔細は村の正史に遺されておらず、陣地に退路の無いことばかりが殊更強調されている。
補給の困難な 孤島の戦い は何処も同じ、数日を生き延びても6月23日へと繋がっている。 生還すれば卑怯者、死を覚悟すれば愚か者、実に沖縄戦に投入された将兵、その評価は哀れなものである。
楚辺海岸への岩場
楚辺集落の外れより、胎内潜りの様な岩穴を抜け、楚辺海岸へと降り立つ。
楚辺海岸
残念ながら雨模様の楚辺海岸。
しかし都屋とは異なり、ここには海岸と呼べる景色が残っている。
Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
│景 色