2019年07月28日
沖縄に潰えた軍旗 130
歩兵第22聯隊 130
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
(殊闘 / その17)
昭和20年5月26日の日中、敵は上空偵察により日本軍の部隊移動を察知していた。 敵が発見したのは先発隊となった輜重隊の物資、女子挺身隊を含む支援部隊の南下行軍であった。 しかし敵は、部隊の交代が行われているものと分析し、日本軍は首里を最期の砦として死守するものと考えていた。
(第62師団司令部(石1882)も26日の移動と云われる)
翌27日の薄暮、首里の第32軍司令部(球1616)は南部への移動を開始した。 司令部は5コの梯団に分かれ、司令官は21時頃、豪雨下の首里を発ち、擾乱射撃を受けながら 津嘉山 を経て摩文仁へと退がった。 これにより「X日」は27日となり、聯隊の撤退は「X日+2日」の29日と決まる。
この間も軍旗は弁ヶ岳に所在し、手練れの准士官2名の戦死が記録されている。 聯隊の任務は、依然として敵の攻撃を支え続け、軍主力の後退を敵に察知されぬことであった。
軍司令部の去った首里の地下壕には、未だ第24師団司令部(山3430)、そして第62師団通信隊(石3599)が所在した。 師団司令部は殿となった隷下部隊の作戦指導にあたり、一方の第62師団通信隊は、師団各隊との通信確保、部隊の掌握に努めていた。 敵上陸より接敵した第62師団の部隊は、戦闘状況をつぶさに発信していた。 時に戦車の出現やガス(黄燐弾)の警戒報を打電して消息を絶つ分隊、平文で「サヨナラ」を打電した分隊もあったと云う。 今や定時の呼び出しにも応答はなく、何れも部隊の最期を意味していた
弁ヶ岳
首里城址(東のアザナ)より臨む東方、弁ヶ岳公園の緑。
弁ヶ岳公園は首里城址に復元された正殿の真正面(真東)に位置し、敵手に陥ちた場合は瞰制される要衝である。
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
(殊闘 / その17)
昭和20年5月26日の日中、敵は上空偵察により日本軍の部隊移動を察知していた。 敵が発見したのは先発隊となった輜重隊の物資、女子挺身隊を含む支援部隊の南下行軍であった。 しかし敵は、部隊の交代が行われているものと分析し、日本軍は首里を最期の砦として死守するものと考えていた。
(第62師団司令部(石1882)も26日の移動と云われる)
翌27日の薄暮、首里の第32軍司令部(球1616)は南部への移動を開始した。 司令部は5コの梯団に分かれ、司令官は21時頃、豪雨下の首里を発ち、擾乱射撃を受けながら 津嘉山 を経て摩文仁へと退がった。 これにより「X日」は27日となり、聯隊の撤退は「X日+2日」の29日と決まる。
この間も軍旗は弁ヶ岳に所在し、手練れの准士官2名の戦死が記録されている。 聯隊の任務は、依然として敵の攻撃を支え続け、軍主力の後退を敵に察知されぬことであった。
軍司令部の去った首里の地下壕には、未だ第24師団司令部(山3430)、そして第62師団通信隊(石3599)が所在した。 師団司令部は殿となった隷下部隊の作戦指導にあたり、一方の第62師団通信隊は、師団各隊との通信確保、部隊の掌握に努めていた。 敵上陸より接敵した第62師団の部隊は、戦闘状況をつぶさに発信していた。 時に戦車の出現やガス(黄燐弾)の警戒報を打電して消息を絶つ分隊、平文で「サヨナラ」を打電した分隊もあったと云う。 今や定時の呼び出しにも応答はなく、何れも部隊の最期を意味していた
弁ヶ岳
首里城址(東のアザナ)より臨む東方、弁ヶ岳公園の緑。
弁ヶ岳公園は首里城址に復元された正殿の真正面(真東)に位置し、敵手に陥ちた場合は瞰制される要衝である。
Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
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