大和世(やまとゆー)77

2010年06月21日 12:00

読谷村 沖縄北飛行場跡と周辺 10
読谷村の中央、旧陸軍が建設し、かつて東洋一の規模を誇った飛行場跡。
西海岸沿い、東シナ海を見下ろす、楚辺集落での慰霊塔。

「楚辺」と聞いて、先ず想起されるのは、FAC6026 楚辺通信所である。 しかし実の処、楚辺通信所は波平に位置し、旧楚辺集落は、FAC6036 トリイ通信施設の敷地に、その殆どを奪われたままにある。
この時は、特に楚辺集落を意識もせず、都屋漁港へ向け、歩みを進めていた。

昭和19年8月中旬、海岸線沿いの楚辺から都屋へ、多くの将兵が到着した。 将兵の所属部隊は、歩兵第22聯隊 歩兵砲大隊。 第24師団麾下、甲装備の此の部隊は、当時、敵上陸の公算が高い場所、且つ、飛行場正面の西海岸/沿岸を指向して配置された。
その後、第9師団の台湾移転により、沖縄防衛計画は変更。 同年12月には、楚辺/都屋周辺の陣地も遺棄されるが、都屋周辺の委細はその次第に於いて。

トリイの米軍基地内には、今でも暗川(クラガー)と称する、湧水を湛えた洞窟(ガマ)が存在すると云う。 戦前は木々に覆われ、正に赤犬子の伝説に裏付けられし場所でもあった。 今は生い茂る灌木も芝生に変わり、基地内のガマには、近づく事さえも出来ない。
沖縄島へ戦火の迫る頃、ここは楚辺集落の避難所となる。 昭和20年4月1日、嘉手納海岸へ殺到した敵は、早くも此の洞窟付近まで進攻し、包囲されてしまう。 洞窟に避難していた人々は恐怖のどん底に陥り、投降の勧告に応じる者、思案する者と運命を分かつ中、呪縛に追われるが如く、暗川の湧水に、8名の方が入水されたと云う。

断崖上にすっくと立つ慰霊塔ながら、門扉には施錠が為され、部外者は近づく事も出来ない。 所詮、部外者ながら、少々複雑な心持ちでその場を去った。 思い当たる節は無きにしも非ず。

 慰霊之塔(楚辺)
楚辺集落外れの断崖、ユーバンタ上、潮風を受けて立つ。

慰霊塔正面の歌碑
くにのため
あだなすなみに
みをとして
いそべにねむる
みたまとうとし
地図はこちら
※地図には路地が表示されないので、航空写真をご覧下さい※

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