戦世(いくさゆー) 488

2014年05月16日 12:00

那覇市若狭 小桜の塔
敵潜の襲撃を受けたナモ103船団、
對馬丸と共に犠牲となった県民、疎開児童の慰霊碑

若狭町の古くからの路地、かつては灯篭の並ぶ、波之上宮の参道であった道筋。 その護国寺脇の木々の中、ひときわ目立つ白と黒のレリーフが見える。 沖縄からの疎開船、その悲劇として謳われる對馬丸、犠牲となった沖縄県民を祭った慰霊碑である。

對馬丸は郵船の建造したT型貨物船の1隻で、大正4年に竣工した初期の船である。 同社は大正2年から10年の間、同型船23杯を建造し、北米・欧州との定期運航を計画した。 本船も新造時は、花形の横浜-北米航路に就いていたが、昭和時代に入り高速船が就航すると、低性能船に分けられている。 日米開戦時、本船の船齢は26年を越え、婆さんと云うべきお歳を召しており、遅い脚は積極的攻撃回避など不可能であった。 また元来の貨物船に船室は限られ、多くの便乗者を収容する為、深い貨物艙を改装し、蚕棚(かいこだな)の様に居住甲板を設けたと云う。

沈没までの数航海、本船は沖縄を目的地とした任務に就いている。
昭和19年8月1日、門司に於いて第24師団主力(山兵団)、船舶工兵第26聯隊(球16744)及び食糧資材を積載し出港、5日10時に嘉手納沖に入港(モ05船団)。 続いて和浦丸、暁空丸と共に上海の呉淞へ回航、第62師団(石部隊)の将兵、武器弾薬を満載し同16日に出港、19日に那覇沖へ入港(609船団)。 本船は、ここまで無事に航海を続けていたが、この次航、ナモ103船団に於いて最期の刻を迎える。
昭和19年8月20日夕刻、僚船(和浦丸・暁空丸)及び護衛の駆逐艦・砲艦と共に那覇を出港、長崎へと向かった。 しかし同22日22時12分頃、敵潜の放った魚雷を受け約10分で沈没。 轟沈にも近く、また深夜であった事、台風明けの波浪の高かった事などが重なった上、僚船は二次被害を避けて海域を離脱。 その結果、疎開児童741名中682名、一般920名中802名、船砲隊41名中21名、乗員86名中24名、合計1,529名(JSU資料)が帰らぬ人となった。

生還した者も着の身着のままで2日から最長は10日を漂流、救命艇の降下も間に合わず、浮遊物に身を委ねるのみ。 この間に体力の弱い子女から、波間に飲まれたと見られる。 救出後は避難先で差別を受け、箝口令の下に、口をつぐんでの生活であったと云われる。 また、沖縄では子供からの音信のない事に憶測を呼び、對馬丸の沈没は公然の事となっていた。

本船の沈没を遡る 昭和19年7月7日、南西諸島の老幼婦女及び学童、計10万人の集団疎開が緊急閣議に決定される。 これに基づく第1次集団疎開船団として、佐世保鎮守府の軍艦
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※護国寺南 公園内※

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