2012年10月19日

大和世(やまとゆー) 205

糸満市糸満 白銀堂 / 後篇
古より糸満の人々が絶えず訪れる聖地。
今も糸満の生活、祭祀の中心にあって崇め奉られている。

その白銀堂の境内、鳥居を躱ってお堂とは反対の左手、大岩を背に1基の石碑が佇んでいる。 これが件の「山巓毛改修碑」、その対にあたる記念碑、正しくは「御大典記念改築碑」である。
記念碑は陽射しに白く輝き、背後の苔生した大岩と対照的な容姿。 旧正月など多くの人々が参詣に訪れるも、この碑に視線を向ける者はない。 人々がその由来を知るかは定かでないが、記念碑は少々場違いな雰囲気で佇んでいる。

改築碑の背面には 「山巓毛改修碑」 の裏面と同様「昭和七年 中秋建立」、更に「白銀神社改築期成會」と刻まれている。 概寸の計測を失念したが、何れも同じ意匠で制作(建立)されており、揮毫を除いて同一の物。 外装は化粧モルタル、内部は鉄筋コンクリート製と思われる。 刻まれた揮毫、その墨入れも色褪せず、亜熱帯独特の菌類の付着も見られない。 恐らくはそれなりの手入れを受けているからと思われる。 山巓毛山頂に斃れた改修碑、それとは対照的に見えるものの、戦禍を潜った傷を負っていた。

記念碑上部「御大」の左手には一発の弾痕。 恐らくは戦闘終結後、本部町 東の 戦没軍人氏名乃碑 同様、心無い米兵の所業と思われる。
昭和20年6月3日、島尻への撤退、真栄里に集結した歩兵第32聯隊。 だが主な兵力は糸満街道を避け、内陸の報得川南岸、照屋~大城森以南に配された。 その為か旧糸満町での市街戦は記録にない。 更には小休止する敵兵の写真、その背後には戦禍を免れた白銀堂らしき姿も写る。 山巓毛同様、日本軍陣地が隣接したとも云われるが詳らかになく、別の意味で少々気に掛かる処である。

 御大典記念改築碑
境内の左手に佇む記念碑、その立ち姿はやや(向かって)右に傾く。
写真では判り辛いが、揮毫左上にひとつの弾痕が刻まれている。
大和世(やまとゆー) 205

 記念碑背面とお堂
背面の由来記は「山巓毛改修碑」と同一。
大和世(やまとゆー) 205

※地図は 大和世(やまとゆー) 203 追記をご覧下さい※


タグ :糸満市

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Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)弾 痕
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