大和世(やまとゆー) 403

2020年01月05日 12:00

名護市嘉陽 聖火宿泊碑 (後篇)
アメリカ統治下の沖縄を巡った
東京オリンピック聖火の宿泊記念碑


昭和39年9月7日正午、聖火は台湾より那覇空港に到着する。 大歓迎の中を奥武山陸上競技場に於ける式典で県民に披露され、式後は那覇の行政主席室で一夜を過ごす。 翌日、那覇を出発した聖火リレーは、戦火の痕跡が残る糸満、具志頭を経て東海岸道を北上、久志村嘉陽に到着する。
当時の写真に拠れば、この碑の前で記念式典が盛大に催され、聖火台にも聖火が点されたようである。 但し背後には、五輪旗を中心として右に日の丸、左手には一回り大きな星条旗が掲揚され、意味深いものが感じられる。 また聖火に続いた御一行は、嘉陽小中学校やキャンプシュワブの施設に分宿し、供食を受けるなどお祭りムードであったと云われる。

翌9月9日、聖火は嘉陽より塩屋、羽地、名護を経て西海岸を南下、11日まで全5日間の行程で本島を一周した。 一方で9日早朝、那覇空港では別の聖火がYS-11の特別機に搭載され、ひっそりと内地(鹿児島県鴨池)へと発っていた。

記録では当時、街角に日本国旗が掲げられ、沿道を埋める人々は日の丸の小旗を手に聖火ランナーを見送っている。 県内は「日本」で開催されるオリンピックを歓迎し、一様にお祭りムードであったと記されている。 しかし在沖米兵による、日の丸の棄損事件が複数件報告されており、未だ直接の遺恨はあったと見られる。 その一方で沖縄を取り巻く政(まつりごと)は、様々に変化を続けていた。

オリンピックの翌年、昭和40年3月に米軍は南ベトナム(当時)へ上陸、同時に北ベトナム(当時)への空襲(北爆)を開始。 対日戦の時と同様、後に米軍は戦略爆撃機B-52による無差別爆撃へ方針を転換、沖縄は事実上の前線基地となっていた。 ベトナム戦争が長期化する一方、昭和45年12月、沖縄市コザで暴動が惹起する。 同じ年の8月、嘉陽集落の属する久志村は、過疎などの理由により名護町(他3村)と合併、名護市となる。 しかし嘉陽地区は大浦湾沿いの久辺3区と異なる歩みを続けているように見える。 その辺野古では昭和31年11月、キャンプシュワブ(FAC6009)の供用が開始され、今なお禍根を残している。

 聖火のあとさき碑
オリンピック後、聖火宿泊にまつわる往時の様相、想いを記した碑。
聖火宿泊碑とは、国道を挟んだ陸側に設けられている。


 五輪モニュメント
旧嘉陽小の校門脇の植込み、二宮翁の背後には、五輪を模したモニュメントが残されている。

※地図は
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