大和世(やまとゆー)61

2010年05月20日 12:00

名護市 屋我地島 愛楽園 1
名護市 屋我地島の北端、済井出に立地する国立療養所。
敷地内には、療養所の歴史と共に、戦火も記憶されている。

屋我地島の北辺に位置する療養所、正式名称は「国立療養所 沖縄愛楽園」と称する。
園の歴史は戦前に遡り、昭和13年11月、沖縄県立国頭愛楽園として開所。 現在は、れっきとした国立ハンセン病療養所ながら、更に遡る事、明治40年3月発布の法律「癩予防ニ関スル件」に基づく、事実上の隔離施設であった。
癩(らい)病、現在はハンセン病と呼ばれ、らい菌の感染症である。 感染力は非常に低く、結核菌の1/200程度、現在は完治できる病である。
しかし、当時は治療法が確立せず、罹患発病者は、その見た目から偏見、差別の対象とされ、自殺、一家心中を選ぶ者さえあった。 発病者は家族からも文字通り山谷へと見捨てられ、各地の療養所に収容されていた。

沖縄島へ戦雲の迫る頃、軍(第32軍と推察)の要請により、本島の在宅患者全てを愛楽園に隔離収容。 昭和19年中頃の所内は、患者と職員1,000名近くにまで膨れ上がる。 治療陣は医師2名と看護婦5名のみ。 隔離政策の名の下、患者の自由と引き換えに、国から衣食住が保障されていた。 しかし戦時下に於いて、内地からの予算も滞る中、急増した患者数。 取り分け食と住の確保は急務を要し、勤務職員も労苦したと云う。
幸いな事か、当時の法は、感染者全てを隔離収容する事としていた為、入園患者の半数以上は、通常生活が可能であった。 その為、入園者自治会の活動、労働によって、次第にそれは整えられた。

「わ」ナンバーの連なる、国道58号の海岸線を離れ、名護の奥武島を通り屋我地島へと渡る。 島内を走る車は皆、古宇利大橋へと吸込まれて行くが、県道を外れ、愛楽園の位置を示す標を伝う。 暫しの後、園の表札と古いコンクリート塀が見え、そこに着いた事を知る。
敷地は広く、遠目には病院等の佇まいに程遠い。 那覇市内の病院の様に、患者の車が駐車場に列を為す光景も見られない。 境界を表す塀には、園内交通に注意を促す旨の看板、その脇には弾痕が刻まれている。
徐行して職員住宅の区画を抜けると、施設の玄関口、医局棟の前に至る。 訪れる人も少ないと見え、外来用の駐車場は閑散とし、カメラ片手に徘徊する輩など居やしない。 時折行き合う職員の方も、不審に思う風も無く、会釈して行き過ぎるだけ。 今や隔離施設ではない園内では。

 愛楽園入口の塀
かつてはこの塀が、「しゃば」との境界であった。
看板の脇には、機銃掃射の弾痕が遺されているが、ほんの序章にしか過ぎない。


 緑の森から見下ろす水タンク
駐車場脇の緑の森、その頂に、戦前から据わる水タンク。
還暦をとうに過ぎた彼は、午下がりの陽射しを背に、「変な奴が来た」と思った事であろう。

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