開発の影で消える戦跡 74
那覇市 牧志周辺 9
人々の行き交う国際通りの中心、むつみ橋交差点から沖映通りの周辺。
緑ヶ丘公園の片隅の古墓、渡嘉敷三良の墓所。
木陰も疎らな緑ヶ丘公園。 何が緑ヶ丘かと云えば、芝生の緑が広がるだけ。 雑草の手入れ、生育、養生に手間を掛ける芝生の野原、不自然な立ち木が並ぶ公園には辟易。 米軍住宅の体で、何とも言い難い。 多寡は問わないが、此れも又、ひとつの公共事業なのねと。
そんな芝生の広場の片隅に、一基の古墓。 まるで忘れられたかの様に、戦火に荒れた姿を晒している。 古墓に眠る人の名は「渡嘉敷三良」。 16世紀に大陸から琉球へと難破漂着し、後に帰化した陶工、瓦職人である。 そう、彼の「瓦屋節」のモデルとも言われる人のひとりでもある。
以前記した様に、その辺りは後世の人が、脚色した節もあり、真偽は不明。 但し、彼の伝えた瓦焼の技法は秀逸で、今迄にない新たな技法であったと云う。 その為、技術を継承した子孫により、後に首里城正殿の瓦、「赤瓦」が焼かれた。
新たな技法がもたらされる以前、沖縄の瓦は「灰色」をし、既存の瓦が無様の如く記されている。 しかし、一口に灰色とて、愛媛県の菊間瓦の様に、鋼の如き深みある灰色もあり、一概に低質とは言い難い。
「沖縄」イコール「赤瓦」のイメージは、広告が造り上げたもの。 沖縄の土(クチャ)と、彼の伝えた技法を工夫し、風土に合った瓦が育まれ、それが沖縄の赤瓦となった。 と云う事だと思ふ。
偉人の墓所、史跡とは云へ、長い間、戦禍に荒れた姿を晒している。 平葺墓だったろうが、屋根/側面は崩れ、ヒラチは無く、そこには進入防止の金網が付けられている。 聖域、霊域にも、分かつ事無く弾雨が降り注いだ証。 それを覆い隠す事無く、後世へと伝えて頂きたい。
渡嘉敷三良の墓 側面の弾痕
墓の左側面、角は破砕され、化粧モルタルを穿って、数発の弾痕が刻まれている。 年を追う毎に蔦が広がり、戦禍の記憶を覆って行く。 しかし、それを掃う事も適当とは思われず、難儀な処か。
普通の人は、お墓の正面から撮影するであろうが、変わった輩は、側面の写真しか撮っていない。 よって、史跡、遺跡のはずだが、弾痕に分類。
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