2019年06月09日

沖縄に潰えた軍旗 126

歩兵第22聯隊 126
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
 (殊闘 / その13)

昭和20年5月22日、本格的な梅雨入りを告げるように、この日から数日間は降雨が記録されている。 連日の降雨に泥濘と化した道路は戦車の機動を妨げ、低い雨雲に敵機は偵察が出来なかった。 これにより敵の攻撃は緩慢となったが、同じ地上にある守備軍将兵も泥濘の中で配置につき、壕内にも雨水は流れ込み、衛生状態は更に悪化していた。

5月19日頃、弁ヶ岳の本部に在った聯隊長は、首里戦線の破綻を予見し、聯隊の最期をも覚悟していたと見られる。
18日、前線を脱出し豊見城の原隊(旧聯隊本部)へ到着した軍医は、行軍に耐え得る将兵120~30名を選抜した。 19日夜、首里石嶺の前線へ向け豊見城を出発した一行だが、経由地の南風原村 津嘉山に於いて聯隊本部の伝令と出会った。

本部の伝令は一行の指揮官である軍医を認めると、聯隊長の命令として以下の旨を伝えた。 「第1大隊、第2大隊とも全滅に瀕し、各大隊とも聯隊本部へ集結した。 来るには及ばないので後日に備え、原隊にて負傷兵の治療に専念するよう。」
聯隊は19日までの戦闘に於いて第1大隊、第2大隊も壊滅、主力の歩兵3コ大隊を幸地石嶺の戦線に於いて喪失していた。 記録にはないが当時、聯隊長は第62師団 参謀長の意見と同様、弁ヶ岳の聯隊本部で軍旗の奉焼も辞さない考えであったと思われる。

 津嘉山集落
津嘉山集落に遺される弾痕の刻まれたヒンプン、後方は第32軍司令部壕の在った高津嘉山チカシモ―。 附近で聯隊本部の伝令と軍医以下の将兵が行き会ったと云われる。
集落の様子に変わりはないが、バイパスの開通と道路の拡幅により、周辺には商業施設が立ち並ぶなど10年前の 津嘉山 と辺りは様変わりしていた。
津嘉山


タグ :南風原町

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