碧血の島 34
防災の日 2018年
関東大震災に因む日本の記念日であり、
災害についての啓蒙を深める日。
今年もまた、墨田区の東京都横網町公園 東京都慰霊堂では秋季慰霊大法要がとり行われた事であろう。 四国での用務にあたった筆者は、日を改めて参拝に訪れる予定である。 この用務中は愛媛から中国地方を移動したが、過日の7月豪雨被害による痕跡が未だ散見され、自然と相対する生業に置く身として振り返ることは少なくない。 それが異常気象か乱開発に因るものか、然して取沙汰される事はなく、復旧ヶ所はコンクリートに塗り潰されるのが常と見える。 折も折、台風21号が太平洋を北上しつつある。
閑話休題
東京、小石川後楽園の日本庭園の一隅に記念碑が佇んでいる。 特異な意匠の碑の表面には「陸軍造兵廠 東京工廠跡 記念碑」、背面には由来記が刻まれている。
明治3年3月、工部省造兵司は水戸藩邸跡に東京工場を建設。 翌年より火工所が操業を開始し、軍都としての槌音が響き始める。 明治5年に陸軍省が発足、明治8年2月 改組により造兵司 東京工場は「砲兵第一方面内砲兵本廠」と改称される。 更に明治12年「東京砲兵工廠」と改称され、大正12年4月には大阪砲兵工廠と合併し、「陸軍造兵廠火工廠 東京工廠」と改称し、旧水戸藩庭園は「小石川後楽園」として国の名勝史跡の指定を受ける。 しかし5ヶ月後の9月1日、東京工廠へも未曽有の災害が襲う。
関東大震災により東京工廠は甚大な被害を受け、復旧には費用が嵩むことから工場は機能移転が図られる。 昭和10年10月、小倉工廠への移転を完了した東京工廠は閉鎖、跡地は民間に売却され、小石川後楽園は都立公園として現在に至る。 大戦末期、球場は軍に接収され、高射砲部隊が展開するなどしたが、空襲の被害は免れている。 震災に遭わず工廠が操業を継続していた場合、敵の爆撃目標となる事は避け得ず、庭園諸共爆砕されたであろう。
平和な空の下に天災と戦禍、二つの記憶が留められている。
東京工廠跡 記念碑
都立小石川後楽園、内庭に位置する記念碑。
碑の形状は当時の工廠の敷地を表現する。 右下は水道橋交差点、白山通りを北上し右上が春日町交差点、頂部は春日通り富坂上、左下は外堀通り 警視庁遺失物センター附近にあたる。
庭園の記念碑とドーム
木立ちの陰に見える記念碑と右手にはドーム球場が聳え、遊具の音や嬌声が響き閑静ではない。 また、園の説明には、この記念碑の存在や位置も含め、工廠の遺構に関する記載は全くない。
関連記事