沖縄県外の戦争遺跡 114

2018年03月11日 12:00

東京都江東区 木場の供養塔 後篇
旧深川区の運河沿いに佇む、
 二基の東京大空襲犠牲者供養塔

西洲崎橋の 大横川 支流の平久川を渡り、(旧町名)深川平久町と深川平富町を結ぶ。 改修を経て齢90年を経過しても、今なお現役で地域の歴史を秘めた橋梁である。 その平久橋を渡った先で目的の遺物は待っていた。

平久橋の西詰、北側の袂には4基の石碑、遺物が佇んでいる。 背の高い中央の御影石には「戦災殉難者供養塔 昭和二十年三月十日」と刻まれ、背面には昭和36年3月10日 旧深川牡丹町、同佃町、同平富町住民によって建立された旨が刻まれている。 左手には、空襲の炎熱に焼かれ、割れ煤けたコンクリート塊、国旗掲揚台が並んでいる。
そして右端に並ぶ朽ちた石柱は通称を「波除碑」(なみよけひ)、隣の「津波警告の碑」に表される、天災に対する戒めの碑である。 都教委の説明版に拠れば、碑は江戸時代の寛政3年(1791年)9月4日、深川一帯に襲来した高潮により多数の死者、行方不明者を生じた。 当時幕府はこの災害の再発を恐れ、洲崎神社以南の土地を買い上げ空地とし、海側への居住を禁じたとされる。 波除碑は空地の北端、東西に建立され、対の碑は洲崎神社境内に遺る。

翻って本日の14時46分、東日本大震災より7年の節目を迎えるが、果たして問題の本質が理解されているのでしょうか。 アレは未だに片が付かないし、あんなことした土地に人を住まわせていいのか、毎々憂慮する筆者である。

 戦災殉難者供養塔と波除碑
江東区牡丹3丁目33、平久橋の西詰に佇む石碑と遺物。
左より東京大空襲被災の国旗掲揚台、表には「国威宣揚」の文字が飾られていたと思われる。 戦災殉難者供養塔、津波警告の碑(波除碑の説明碑)、右端の波除碑は朽ち、全長の1/3を残すのみである。


 遺物遠景と平久橋
武骨な復興橋梁の傍らに波除碑と供養塔、震災と戦災と復興の縮図が街中に飾られている。

地図はこちら
※平久橋西詰※

a href="http://phoenixexpress.ti-da.net/e3746249.html" link_v"> 旧墨田電話局の慰霊碑

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