沖縄県外の戦争遺跡 112
東京都八王子市 戦災死者供養塔 後篇
大戦末期に於ける、敵戦闘機による機銃掃射攻撃
中でも最悪の死傷者を生じた、列車銃撃犠牲者の供養塔
被弾した電気機関車は黒煙を吐き、トンネルに入ると停車してしまった。 これは機関車を守る措置として、緊急ブレーキが掛けられたとも云われるが、勾配を逆走する可能性もあった。
1~2輌目の客車は、1航過の銃撃を受けたもののトンネル内に入り、トンネル外の車輛は繰り返しの攻撃が加えられる。 命中は免れたが、敵機はロケット弾を発射し土手に炸裂。 銃撃は3輌目附近に集中し、逃げ惑う人々を12.7ミリ弾が襲った。
P-51による419列車襲撃の模様は、附近の住民にも目撃されている。 荒井地区は、8月2日の八王子空襲でも無事であったが、この時初めて空からの脅威に晒され、その衝撃は大きかった。
その日、静かな谷間に突如として爆音が響いた。 頭上を仰ぐと敵機が急降下し、その行く手には列車が喘ぐ様に勾配を走っている。 「早くトンネルへ逃げて・・・」 その心の叫びは届かず、機関車は銃撃を受け客車が1輌半入った状態で立ち往生してしまった。 2機のP-51は、交互に列車を銃撃し飛び去った。 恐ろしい束の間の出来事に、自らの無事を奇跡のように思えたと云う。
敵機の去った夏空の下、列車の内外に死者、負傷者が横たわり、阿鼻叫喚の巷と化した。 車内は血の海となり、肉片や髪の毛、主を失った所持品が飛散し、床には遺骸が転がっていた。 列車は地元消防団と婦人会の人々により救助され、被災者は死者52名以上、重軽傷者133名にも上った。
銃撃に架線は切られ、電気機関車は損傷し、中央本線は再び不通となった。 自走出来なかった419列車は、蒸気機関車によって浅川駅へと回送される。 車内から遺留品が集められ、引き取り手の無いものは戦後暫くして焼却処分された。 客車のその後については不明、被弾したED16-7号機は甲府駅に回送されたと云われる。
ED16-7号機関車は修理され、戦後は立川機関区で働き続けていた。 しかし昭和55年頃には除籍、翌昭和56年2月12日、国鉄大宮工場で解体され、2枚のプレートが八王子市 郷土資料館に寄贈された。
ED16-7号機 標識
八王子郷土資料館に展示されている同機のプレートと仔細の説明。
この手の米軍による不法行為の多くは、国が賠償権を放棄し、国民は受忍限度として補償も謝罪も受けていない。
(要撮影許可)
戦後5年の8月、上長房青年団が供養塔を建立、塔には亡くなった方々を荼毘に付した日影沢の石が用いられている。 昭和56年より八王子市教委は、本攻撃を含む八王子空襲について調査を実施。 同処に於ける犠牲者数を60名以上と推定している。
慰霊の碑は平成4年に建立され、判明した44の犠牲者の氏名が刻まれている。
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