開発の影で消える戦跡 230

2018年03月02日 12:00

西原町棚原 棚原観測所壕 6
首里複廓陣地の第二線、棚原高地の一隅、
 かつて軍の構築した着弾観測所跡が存在した。

火砲の活躍に目を奪われがちだが、第5砲兵団には重砲、臼砲、迫撃砲部隊の他、工兵隊が司令の隷下に置かれていた。
独立工兵第66大隊(球10279)は昭和19年8月15日、京都の工兵第53聯隊補充隊に於いて編成を完結(3コ中隊+特設中隊)。 同年9月16日(2Co 9/28)、那覇港に上陸し同日第32軍司令隷下、第5砲兵司令に配属された。 以降大隊は軍直轄砲兵隊の陣地構築援助に任じられ、その傍らで自らの棲息壕構築にあたっている。 残存する 昭和19年10月30日下令の大隊長命令には、主として10.10空襲以降に上陸した 野戦重砲兵第23聯隊(球3109)、軽迫撃砲諸中隊の(観測所を含む)陣地構築作業、技術的援助の任務が遺されている。

更に戦後に記された史実資料に拠れば、第2中隊(4コPt)は昭和20年3月迄に肉攻陣地、砲兵司令部観測所、火砲陣地(23SA、100FeAs)の構築。 緒戦には第5砲兵団火砲の機動援助、陣地強化に努め、仔細の判明する部分では4月10日、第2中隊の1コ小隊は、千原に所在した独立重砲兵第100大隊(球18804)の火砲(15K)2門の救援に転進。 続いて4月23日、神里(新川)の埋没火砲(15K)2門の救援に転進したと遺される。 恐らくは甲号戦備の下令以降、大隊は中隊以下、小隊毎に配属先の砲兵諸隊の指揮下に在って道路補修や陣地構築に邁進し、多くは「砲兵操典 綱領」宜しく砲兵と共に砲側に斃れたものと考えられる。

クチャの壁面が崩れ、荒れた坑道を北へ進むと観測所の開口部へ至る。 そこは壕口とは異なり、弾片や爆風の侵入を防ぐ目的か、石段で1メートル程の高低差が設けられ、外光の差し込みが少ない。 2段の石段をよじ登ると、そこには観測所がテラス状に設けられ、目の前には小雨に濡れた緑葉、その向こうには雨雲の下に宜野湾の街並みが望めた。

 観測所
北側の開口部、観測場所への入口の設え。


 観測所視界
観測場所からの景色は、多くが銀ネムの緑葉に遮られているが、僅かに望ねる建屋から真北を向いている事が確認出来た。


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