沖縄に潰えた軍旗 125

2019年05月31日 12:00

歩兵第22聯隊 125
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
 (殊闘 / その12)

昭和20年5月21日、聯隊本部は未だ弁ヶ岳に在った。 聯隊長は第1大隊を予備隊として戦線より後退、第2大隊と配属の独立臼砲第1聯隊(球3660)第5中隊長を第3大隊長として、所在の第24師団長隷下部隊と共に戦線を維持していた。
沖縄の空模様は5月15日頃から降雨が記録され、20日頃に梅雨入りしたと云われる。 この天候が守備軍に味方し、敵の攻撃は低調となった。 特に泥濘により、戦車の機動が制約を受ける状況は、重火器の乏しい歩兵部隊に与した。

同日(又は22日)の夜、首里城下の軍司令部作戦室では、軍司令官の下に各兵団の幕僚が参集していた。
首里複廓陣地は事実上破綻し、本丸を守る最終線も命運が近づきつつあった。 加えて敵は西で那覇市街に侵入し、与那原市街が敵手に陥ちれば、首里陣地は側背より崩壊する危険があった。 ここに至り軍司令官は、首里に拠って最後の戦いを行う、又は喜屋武半島、知念半島に後退し持久戦を継続するか、兵団からの意見を諮った。

第62師団(石部隊)は首里で最後の戦闘、第24師団(山部隊)は喜屋武半島への後退、独立混成第44旅団(球部隊)は知念半島への後退をそれぞれ主張し、何れも自らの旧陣地に拠ることであった。 この場で海軍沖縄方面根拠地隊は意見を述べず、沖縄県知事の意見は聞き入れられなかった。
軍の高級参謀は、予め喜屋武半島への後退を企図しながら三案を示し意見を諮り、喜屋武半島への後退を提案したと云われる。

この場で第62師団 参謀長は、多くの師団将兵が傷付き斃れた首里戦線での玉砕戦を強硬に主張したが、軍の作戦方針には従う。
この参謀長の主張は感情論ではあった。 しかしとも唯一の掛け金すら外され、沖縄戦は軍民混在の断末魔の島尻へ向け、地獄の釜の蓋は開かれた。

 弾痕の遺るコンクリート構造物
一般には弁ヶ岳のトーチカと称されているが、鉄筋コンクリート製の構造物は特火点(トーチカ)の構造ではない。
第32軍航空情報隊(球18822)電波警戒隊の記録に拠れば、昭和19年8月頃より建設中であった、要地用電波警戒機(レーダー)の送信所、又は受信所であったと考えられる。 激戦を物語るように、反斜面に在りながら夥しい弾痕が刻まれている。


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