沖縄に潰えた軍旗 136

2019年10月27日 12:00

歩兵第22聯隊 136
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
 (終焉 / その5)

昭和20年6月4日、敵は侵攻の速力を上げ、東岸では港川の線に迫りつつあった。 しかし西岸では、小禄半島死守を決した海軍沖縄根拠地隊の熾烈な抵抗に遭遇ていた。 一方の聯隊正面では、第1収容陣地の歩兵第32聯隊(山3475)が撤収し、敵は聯隊の占領する友寄~饒波川の第2収容陣地へ矛先を向けていた。

この日、敵は海軍小禄飛行場の北西岸より水陸両用車輌を以て上陸を開始。 敵は既に国場川を渡河、小禄地区へ向けて北上を企図しており、沖根は東西両面に敵を支える状況に陥った。 糸満街道が遮断されれば、小禄地区は島尻への退路を失う危険があり、それは沖根司令部に近い聯隊の残置隊(患者収容所)も同じ命運であった。
この頃、沖根の参謀が聯隊の残置隊を訪れ敵情を知らせ、患者収容所の撤収を勧めたと云う。 応対した軍医は、聯隊長の指示を仰ぐ旨を伝え、本部へ伝令を走らせた。

正史には記されていないが、残置隊からの報告に触れた聯隊長は、師団司令部(24DHQ)へ応援を依頼。 輜重兵第24聯隊(山3480)より残存車輌の都合をつけ、患者の後送が為されたと云われる。 重傷者の搬送先は、聯隊の後退予定地真壁集落、その南東に位置する自然洞窟、タジリガマであった。
同時期、聯隊指揮下の防衛隊及び、旧聯隊本部附近に所在した豊見城の住民は、聯隊の保有する糧食の後送に駆り出され、糧食壕(豊見城メーヌヒラ附近)より真壁までの搬送に従事している。

 糧食壕跡
聯隊の糧食壕があった豊見城集落南、メーヌヒラの南斜面。
軍旗の所在した友寄まで直線距離で4キロ近く離れ、兵力も枯渇した本部に支援を得ることは不可能であった。 その為、師団主力、又は残置隊の後退命令と同時期に主計下士官が防衛隊を指揮し、糧食の後送にあたったと考えられる。


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