開発の影で消える戦跡 21
浦添市経塚 真知堂近辺 1
石嶺本通りと経塚通りの間、新道開通に向け、変わりつつある景色。
旧道の在った丘陵から見下ろす、首里/大名団地方面。
狭隘な沖縄島とは言へ、年に数回の訪れで、方々を散策しても、未だ未踏の地域は数多有ると思われる。 此処もその様な地峡のひとつ。 経塚通りや石嶺本通りをバスで通ったり、徒歩で抜けてはいたが、全く足を踏み込まなかった。
沖縄戦時の部隊動静、戦闘経過を調べる内に気付き、急ぎ赴いた時には既に手遅れで、地形も変貌。 近年の開発の速さにより、良くある事ではある。 自他共に生業もあり、致し方なき事と諦めている。
此処は、那覇市と浦添市の境界が近い場所。 隣接の石嶺に、古くから住まう方の言に拠れば、かつては多数の壕が散在し、幼少の頃は格好の遊び場であった。 遊びは壕の探検、専ら金属類の回収をし、弾薬からは火薬を処分して換金。 鉄兜を手に取ると、頭蓋骨には未だ頭髪が残っている時分、認識票も多数回収したとの事。 時には骸骨を放り投げたり、的代わりに石を投げたりもしたが、幼き頃の事、今は原野に分け入り、遺骨の発見に尽力されている。
2002年頃か、経塚通り側(経塚交差点の東側)で、道路拡張工事が開始されたのは気付いていたが、その時点で足を向けていたらと、毎度毎度の後悔。 埋没壕の捜索は適わなくとも、景色のひとつも収めて置きたかったと思ふ。
旧道の台上から見下ろす大名/首里方面(2007年3月撮)
切り開かれた谷間の低地帯。 此の周辺は、松が生え、春には鉄砲百合の咲く原野だったらしいが、その面影も殆んど消えかけている。 前田高地の攻撃に向かう、歩兵第32聯隊 第2大隊が集結したのが、此の低地帯にあたる。
前出 同位置(2009年12月撮)
造成地に建築が始まれば、この景色も望めなくなる。
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