沖縄に潰えた軍旗 87

2017年07月30日 12:00

歩兵第22聯隊 87
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡

昭和20年4月22日、第32軍司令部は、第24師団(山部隊)主力の北上を決定する。 しかし下令から部隊の機動までには数日を要し、生存者の記憶に拠れば、歩兵第89聯隊(山3476)第1大隊は4月26日、歩兵第32聯隊(山3475)第2大隊は同25日の晩であったとされる。 両聯隊は既設陣地を引払い、布陣した糸満地区(兼城村、高嶺村、喜屋武村、真壁村、摩文仁村)より首里近郊まで、直線距離で15キロ前後を隔ており、夜間に擾乱射撃を避け完全武装での行軍である。 僅か10日の間に戦況は変化し、歩兵第22聯隊の時期より更に難渋したものと思われる。

同時期の4月25日、師団砲兵の野砲兵第42聯隊(山3480)は、主力3コ大隊が東風平村、兼城村より南風原村大名、豊見城村平良に放列を移し、観測所は弁ヶ岳、運玉森に置いていた。 また、同聯隊の1コ大隊(2Bn-4Co)は4月11日、運玉森南西の大見武附近に放列を敷き、既に第62師団の戦闘に協力していた。

師団では、捜索第24聯隊(山3478)が4月23日、与座より南風原村大名附近へ進出。 同聯隊は沖縄動員前の昭和19年2月、戦車、速射砲、機関銃中隊を抽出され、歩兵2コ中隊と重火器隊(重機関銃2銃、97式自動砲2門)、将兵約450名に沖縄防衛隊約500名の編制であった。
工兵第24聯隊(山3481)は、作戦開始直後より固有の3コ中隊を師団の各歩兵聯隊へ配属しており、歩兵第22聯隊へは第1中隊が配属。 4月27日、聯隊本部のみが高嶺村大里より首里赤田町へ進出。 第24師団司令部(山3430)も4月23日、戦闘指令所を

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