2014年12月06日

沖縄に潰えた軍旗 13

歩兵第22聯隊 13
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
(都屋海岸の聯隊砲陣地 4)

昭和19年8月5日~6日、那覇に上陸を果たした歩兵第22聯隊(山3474)将兵は、山之上国民学校、及び開洋会館に分宿、翌7日は休養、整備に充てられた。 この頃、第62師団は第24師団を追従する様に上海 呉淞へ向け集結を開始、約2週間後にはモ609船団に乗って那覇港への上陸を果たす。 それに先立ち第24師団の兵どもは、休養もそこそこに守備地区である中頭郡、各処への移動を開始する。

聯隊は昭和19年8月8日、薄昏と共に宿営地を出発、夜行軍により北谷村の北辺へ向け国頭街道を北上した。 暦は既に8月へと移り、盛夏を迎えた沖縄の気候はソ満国境と大きく異なっていた。 その為、日中の暑気を避け、夜行軍による移動となった。 完全武装の聯隊将兵は落伍者もなく、夜半には北谷村の北玉国民学校に集結。 小休止によって婦人会の湯茶の接待を受けた後、大隊毎、更に中隊毎に分かれ、各々の守備地区へと向かった。
歩兵第22聯隊は本部を牧原農事訓練所に置き、第2大隊・長田、第3大隊・屋良、そして歩兵砲大隊を野里近郊へ配置、翌日より将兵は陣地構築に汗を流す事となる。

昭和19年7月6日の動員下令より、第24師団(山兵団)主力は実に1ヵ月を掛けソ満国境より沖縄へ移駐、実戦配備についた。 しかし遡る同年2月、歩兵第89聯隊(山3476)は、第3大隊が抽出されサイパン島へ派遣。 同年4月には、歩兵第22聯隊(山3474)、歩兵第32聯隊(山3475)、及び野砲兵第42聯隊(山3480)は、何れも第1大隊が抽出され、メレヨン島へと派遣。 沖縄到着時の師団は歩兵3コ大隊、砲兵1コ大隊が欠除し、精鋭師団とは云いながら、事実上は1コ聯隊が欠除する状態であった。

 都屋の壕内
銃眼より潜り込んだ壕内、内部は高さ1.6メートル×幅2メートル程度、坑道は東西に向いて10数メートルが残存。 海蝕洞を利用したと云われる聯隊砲陣地、その内部は焼かれ、例によってゴミが散乱する。
沖縄に潰えた軍旗 13

 閉塞された坑道
集落方向(都屋漁港入口附近)へ続いたと思しき坑道は閉塞され、造成による埋め戻し、土砂の堆積などにより、原形は砲座周辺のみに遺る。
沖縄に潰えた軍旗 13

※地図は 沖縄に潰えた軍旗 11 追記をご覧下さい※


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