大和世(やまとゆー) 343
宜野湾市真栄原 鎮魂之塔 / 後篇
普天間飛行場の南に位置する真栄原、
その公民館の片隅に据えられた慰霊碑、鎮魂之塔
真栄原公民館を後にして、路地を抜け南へ進むと、車列の続く県道へと至る。 かつては那覇発~名護行き、77番路線のバスに乗り、度々車窓から見下ろした街並みである。 県道を大謝名方面へ下れば、直ぐにバス停が設けられている。 そこには「第二真栄原」の文字、改められて久しいらしく、上書きされた文字は薄汚れている。 また南側の路地、頭上に掲げられていた看板も、その痕跡すら消し去られていた。 かつてそのバス停には「新町入口」と表されていた。
住宅地の只中に在った歓楽街、その生い立ちは沖縄戦の終結から敗戦直後、米軍キャンプに隣接する特飲街であったと聞く。 その後は料亭街、歓楽街と変遷を重ね、いわゆる新町と称され表向きは飲食店街として、60余年を永続していた。 しかし時代を経て、四囲には民家が迫り、通学路の一部となった。 不夜城を謳われた街も、朝だけは表戸を閉ざす様になった。
その街に転機が訪れたのは10数年前、未成年者の就労と反社会勢力の介在が取沙汰された辺り。 いわゆる公然の秘密、生業を守るべく、努力をした組合であった。 しかし人身売買、薬物など、反社会勢力の関与が相次いで挙げられ、地域の浄化運動は勢いを増した。 その結果、社交業組合は解散の已む無きに至ったと聞く。 今から5年ほど前、近くの某スーパーが看板を下ろしていたが、恐らくその頃であったと見られる。
生きるとは人ののたうつこと。 また他生の縁とは云うものの、触れてはならぬこともままある。 しかし明であれ暗であれ、これもまた地域の歴史、敗戦を端緒とした事実である。
真栄原公民館
旧佐真下、現在の真栄原3丁目に位置する公民館。
第二真栄原バス停
かつては「新町入口」と称され、県道越しの2丁目には歓楽街があった。
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