2011年02月01日
大和世(やまとゆー) 121
南城市知念久手堅 ウローカー砲台跡 / 13
知念埼砲台、通称ウローカー砲台の指揮所、
重砲兵第7聯隊 第2中隊、知念地区隊の本部壕跡 / 終章。
内部を一巡の後、再び南側の壕口へと戻る。 この壕内に起居し、壕口、通路を行き来した中隊将兵。 果たしてその幾人が、戦火を生き抜く事が出来たであろう。 昭和20年4月18日、敵の報復に潰えた砲台。 砲兵は砲側を死処と教えられ、砲員皆人が無事であったとも思えない。 その際の戦死者、並びに中隊将兵の末路に関しても、詳らかには遺されていない。 同聯隊 第2中隊は主力火砲を失った後、記録上その部隊名は現われない。 作戦上の「駒」として、ここに機能を失った訳である。
同年4月下旬、中隊の野砲1門が、大里城址の聯隊本部へと前進し、小那覇方面への砲撃を開始。 恐らくはこの時、中隊の主力も聯隊本部に合流。 それと同時、大里城址に布陣した第3中隊は、その火砲の多くが潰され、壊滅に瀕したとも推察される。
火砲を失った砲兵。 作戦上の「駒」として、その意味を為さなくなった部隊だが、決して将兵に暇(いとま)はない。 挺身斬込隊として、生ある限り酷使され、屍となって後、初めて暇が訪れる。 ここ知念を離れて後の第2中隊将兵、彼等の消息は絶える。
ウフグスクに構築された指揮所、本部壕も、その後辿った路は、杳として知れない。 同年6月、首里撤退の後、知念半島での戦闘はなかったのか。 そして不運にも壕内で命を落とし、土となった人はいないのか。 手当ての余裕さえない今、何人も居らぬ事を祈るのみである。
暗闇に浮かぶ壕口
灯りを落とし、壕口の額縁を覗い見る。
通路を北西風が抜け去り、壕外からは時折、鳥の啼き声だけが響き来たる。
ウフグスク南部分
壕口の潜む、ウフグスクの南部分を知念岬公園内より臨む。
壕口は右手の歩道裏、雑木の中に眠っている。
知念埼砲台、通称ウローカー砲台の指揮所、
重砲兵第7聯隊 第2中隊、知念地区隊の本部壕跡 / 終章。
内部を一巡の後、再び南側の壕口へと戻る。 この壕内に起居し、壕口、通路を行き来した中隊将兵。 果たしてその幾人が、戦火を生き抜く事が出来たであろう。 昭和20年4月18日、敵の報復に潰えた砲台。 砲兵は砲側を死処と教えられ、砲員皆人が無事であったとも思えない。 その際の戦死者、並びに中隊将兵の末路に関しても、詳らかには遺されていない。 同聯隊 第2中隊は主力火砲を失った後、記録上その部隊名は現われない。 作戦上の「駒」として、ここに機能を失った訳である。
同年4月下旬、中隊の野砲1門が、大里城址の聯隊本部へと前進し、小那覇方面への砲撃を開始。 恐らくはこの時、中隊の主力も聯隊本部に合流。 それと同時、大里城址に布陣した第3中隊は、その火砲の多くが潰され、壊滅に瀕したとも推察される。
火砲を失った砲兵。 作戦上の「駒」として、その意味を為さなくなった部隊だが、決して将兵に暇(いとま)はない。 挺身斬込隊として、生ある限り酷使され、屍となって後、初めて暇が訪れる。 ここ知念を離れて後の第2中隊将兵、彼等の消息は絶える。
ウフグスクに構築された指揮所、本部壕も、その後辿った路は、杳として知れない。 同年6月、首里撤退の後、知念半島での戦闘はなかったのか。 そして不運にも壕内で命を落とし、土となった人はいないのか。 手当ての余裕さえない今、何人も居らぬ事を祈るのみである。
暗闇に浮かぶ壕口
灯りを落とし、壕口の額縁を覗い見る。
通路を北西風が抜け去り、壕外からは時折、鳥の啼き声だけが響き来たる。
ウフグスク南部分
壕口の潜む、ウフグスクの南部分を知念岬公園内より臨む。
壕口は右手の歩道裏、雑木の中に眠っている。
Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
│戦争遺跡