2015年01月18日

沖縄に潰えた軍旗 17

歩兵第22聯隊 17
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
(都屋海岸の聯隊砲陣地 8 / 終章)

第24師団が本島中部(中頭郡)へ布陣したのは、凡そ4ヶ月。 歩兵第22聯隊の動静に拠れば、昭和19年8月6日に上陸を完了、同8日の夕刻に那覇を出発し、昭和19年8月9日朝に北玉国民学校に集結、各隊の陣地へと分かれた。 そして同年12月10日、再び夜行軍により島尻(小禄村・豊見城村)を目指している。 この間、沖縄・第32軍には、幾つかの大きな事件・転機が訪れている。

昭和19年10月10日、沖縄は米機動部隊による本格的な空襲、 10.10空襲 に見舞われる。 翌日より、聯隊の布陣する沖縄北飛行場、中飛行場には、続々と友軍機が飛来し、補給を終えると再び南方へ飛び立って行った。 彼の敵機動部隊を追撃する、いわゆる台湾沖航空戦の開幕であった。 しかし海軍は、自国近海での航空戦に大敗。 加えて誤認戦果は後の第9師団抽出へと繋がり、同年11月17日、台湾への転出命令が下される。

同年10月15日、兵役法に基づく徴兵者、いわゆる沖縄初年兵が各隊へ入隊。 聯隊でも大隊毎に教育隊を設置、原隊とは別個に初年兵教育を行っている。 その初年兵教育も通常は3ヶ月を要するものの、2ヶ月余で切り上げられ、同年12月末、那覇への行軍を最後に教育隊は解散、初年兵は各隊へ配属となっている。
この間、聯隊の動静仔細は遺されていないが、大きな事故が伝えられている。

 射界
砲座の開口する岩場、アミフシモーの上から臨む、砲の射界となる北西方向。
冴えない雲行きは、雨模様となっていた。 雨雲の下の水面は台風にも耐え得る長大なケーソンに囲われ、今や都屋海岸と称する風情などはない。
沖縄に潰えた軍旗 17

 砲座遠景
北から臨む砲座の遺る岩場の遠景。
中央やや左、木立ちの繁茂する裾に、砲座は残存する。
沖縄に潰えた軍旗 17

※地図は 沖縄に潰えた軍旗 11 追記をご覧下さい※


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