2018年02月26日
開発の影で消える戦跡 226
西原町棚原 棚原観測所壕 2
首里複廓陣地の第二線、棚原高地の一隅、
かつて軍の構築した着弾観測所跡が存在した。
独立歩兵第12大隊(石3593)兵士の証言記録などに拠れば、棚原には数多の壕が準備されていた。 何れも「コ」の字型に開掘され、弾薬など物資の集積に用いられていたと云われる。 平成の初頭まで、少なくとも5基の構築壕を確認できたが、何れも小型の単一坑道の壕であった。 しかしそれさえも内部の崩落が著しく、今では出入口の閉塞されたものもある。
それ等の中にあって通称「棚原観測所壕」は、その「通称」に相応しい構造であったと記憶する。
壕の構造は概ね「H 」型をなしており、堅牢な岩盤下に10メートル弱の距離を隔て2本の坑道が開掘され、内部で両の坑道が連絡していた。 出入りの容易な左(西)側の坑道は盲貫で連絡部より先は水没、他方の坑道が貫通し北に眺望の利く事が観測所と称される所以であった。
貫通個所は坑道より1メートル程の高低差を設け、掩蓋となる岩盤の内にテラス状に成形されていた。 広さは2人程の足場、或いは砲隊鏡を設置する程度の広さであり、監視哨や銃座としては開口が広く、足場は狭い。 視界の殆どは緑に遮蔽されているが、その合間から覗く景色は正しく北を向いており、その先約1万2千メートルには、かつて沖縄中飛行場と称されたKAB(FAC6037)が横たわっている。
落ち葉の溜まった壕口を潜ると、ニービの岩盤下に坑道が続いていた。 壕口附近は、乾燥したクチャの側壁が崩壊していたが、5メートル程進入すると四角く整形された坑道が遺っていた。 坑道の高さは1.5メートル程度、幅は1~1.5メートルと場所によって異なる。 その坑道は右へ直角に分れ、直進部分は20センチ程に水が溜まり、その奥に光の見えない事から盲貫と見られた。
坑道
壕口より臨む壕内の様子。
ニービの掩蓋は堅牢ながらクチャの側壁は風化崩落し、坑道は歪に見える。
坑道内部
深部にはニービの岩盤下、正しく直進する坑道が遺っていた。
坑道は右へ続くが、直進方向は冬場でも水が引かず、立入る機会は無かった。
首里複廓陣地の第二線、棚原高地の一隅、
かつて軍の構築した着弾観測所跡が存在した。
独立歩兵第12大隊(石3593)兵士の証言記録などに拠れば、棚原には数多の壕が準備されていた。 何れも「コ」の字型に開掘され、弾薬など物資の集積に用いられていたと云われる。 平成の初頭まで、少なくとも5基の構築壕を確認できたが、何れも小型の単一坑道の壕であった。 しかしそれさえも内部の崩落が著しく、今では出入口の閉塞されたものもある。
それ等の中にあって通称「棚原観測所壕」は、その「通称」に相応しい構造であったと記憶する。
壕の構造は概ね「H 」型をなしており、堅牢な岩盤下に10メートル弱の距離を隔て2本の坑道が開掘され、内部で両の坑道が連絡していた。 出入りの容易な左(西)側の坑道は盲貫で連絡部より先は水没、他方の坑道が貫通し北に眺望の利く事が観測所と称される所以であった。
貫通個所は坑道より1メートル程の高低差を設け、掩蓋となる岩盤の内にテラス状に成形されていた。 広さは2人程の足場、或いは砲隊鏡を設置する程度の広さであり、監視哨や銃座としては開口が広く、足場は狭い。 視界の殆どは緑に遮蔽されているが、その合間から覗く景色は正しく北を向いており、その先約1万2千メートルには、かつて沖縄中飛行場と称されたKAB(FAC6037)が横たわっている。
落ち葉の溜まった壕口を潜ると、ニービの岩盤下に坑道が続いていた。 壕口附近は、乾燥したクチャの側壁が崩壊していたが、5メートル程進入すると四角く整形された坑道が遺っていた。 坑道の高さは1.5メートル程度、幅は1~1.5メートルと場所によって異なる。 その坑道は右へ直角に分れ、直進部分は20センチ程に水が溜まり、その奥に光の見えない事から盲貫と見られた。
坑道
壕口より臨む壕内の様子。
ニービの掩蓋は堅牢ながらクチャの側壁は風化崩落し、坑道は歪に見える。
坑道内部
深部にはニービの岩盤下、正しく直進する坑道が遺っていた。
坑道は右へ続くが、直進方向は冬場でも水が引かず、立入る機会は無かった。
Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
│戦争遺跡