2018年03月01日
開発の影で消える戦跡 229
西原町棚原 棚原観測所壕 5
首里複廓陣地の第二線、棚原高地の一隅、
かつて軍の構築した着弾観測所跡が存在した。
戦後の史実資料に拠れば、第5砲兵団司令 隷下の野戦重砲兵第1聯隊(球6523)は敵上陸後、4月6日迄に陣地変換を了え、観測所を 棚原△154.9高地 から 上原△157高地 間に置いたと云われる。
同じく独立重砲兵第100大隊(球18804)は、敵上陸と同時に1コ中隊(2Co / 15k×4門)が千原、棚原へ進出したと云われる。 予め予備陣地を準備していたと思われるが、この時の火砲の詳細な位置は不明である。 同大隊は同時に大隊本部、観測所も前進し、何れも棚原西方高地に所在したと遺るなど、符合する部分もある。
一方で 野戦重砲兵第23聯隊(球3109)について、残念ながらその動静を詳らかに記した文書に出会っていない。 同聯隊は第32軍で最大の火力、96式15センチ榴弾砲 24門を擁しながら、その活躍(生死)について触れられる機会は少ない。
余談ながら市中には2門の15榴が沖縄戦の証人、野重第1聯隊の遺品として伝わり、同聯隊の奮戦が殊更に表されている。 その陰で野重第23聯隊の操ったと思われる火砲は、鏡水の一隅に今も那覇港の中空を望み、日の目を見る機会はなさそうである。
東側の坑道にて南方向を見ると、闇の奥には壕口が開き、外光と共に緑が見えた。 直線の坑道は通気がよく、それに因るものかクチャの壁面が崩れ全体的に荒れて見える。 往時はどの程度の幅で構築したかは判らないが、観測位置(開口部)に近い場所でもあり、ある程度の広さであったと考えられる。
東坑道
壕口方向(略南)へ臨む東側の坑道。

東坑道
壕口附近より北側への開口部、観測所方向へと臨む。
壁面のクチャは崩壊が著しく、元の坑道や部屋の大きさも判然としない。

首里複廓陣地の第二線、棚原高地の一隅、
かつて軍の構築した着弾観測所跡が存在した。
戦後の史実資料に拠れば、第5砲兵団司令 隷下の野戦重砲兵第1聯隊(球6523)は敵上陸後、4月6日迄に陣地変換を了え、観測所を 棚原△154.9高地 から 上原△157高地 間に置いたと云われる。
同じく独立重砲兵第100大隊(球18804)は、敵上陸と同時に1コ中隊(2Co / 15k×4門)が千原、棚原へ進出したと云われる。 予め予備陣地を準備していたと思われるが、この時の火砲の詳細な位置は不明である。 同大隊は同時に大隊本部、観測所も前進し、何れも棚原西方高地に所在したと遺るなど、符合する部分もある。
一方で 野戦重砲兵第23聯隊(球3109)について、残念ながらその動静を詳らかに記した文書に出会っていない。 同聯隊は第32軍で最大の火力、96式15センチ榴弾砲 24門を擁しながら、その活躍(生死)について触れられる機会は少ない。
余談ながら市中には2門の15榴が沖縄戦の証人、野重第1聯隊の遺品として伝わり、同聯隊の奮戦が殊更に表されている。 その陰で野重第23聯隊の操ったと思われる火砲は、鏡水の一隅に今も那覇港の中空を望み、日の目を見る機会はなさそうである。
東側の坑道にて南方向を見ると、闇の奥には壕口が開き、外光と共に緑が見えた。 直線の坑道は通気がよく、それに因るものかクチャの壁面が崩れ全体的に荒れて見える。 往時はどの程度の幅で構築したかは判らないが、観測位置(開口部)に近い場所でもあり、ある程度の広さであったと考えられる。
東坑道
壕口方向(略南)へ臨む東側の坑道。

東坑道
壕口附近より北側への開口部、観測所方向へと臨む。
壁面のクチャは崩壊が著しく、元の坑道や部屋の大きさも判然としない。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
│戦争遺跡