2010年06月06日
開発の影で消える戦跡 45
豊見城市 瀬長近辺 10
豊見城市の北西、那覇市との境に位置する集落。
瀬長集落の東方、田頭の丘陵に遺る陣地壕(その1)。
開発の波から少々離れるも、瀬長近郊に引き続き、田頭集落に遺る壕について。
瀬長集落から東方へ向かうと、程なく路傍には「田頭のシーサー」が鎮座し、田頭集落へと至る。 彼のシーサーの裏手、北側には、瀬長から続く丘陵が、緑を湛えて横たわる。 丘陵の緑の中には、家型墓が点々と鎮座し、その一隅には、戦時中の壕が捨て置かれている。 忘れられた如く、半ば泥土に埋もれた壕は、独立速射砲第3大隊(球6403)が遺した物と云われる。
独立速射砲第3大隊は、昭和16年7月17日、香川県丸亀市に於いて編成。 翌月2日、松山の歩兵第22聯隊(山3474)と同じく、坂出港より中国大陸(大連)へ渡り、そして二度と四国の地へ戻る事の無かった部隊である。
昭和19年6月19日、動員下令。 海拉爾(ハイラル)/釜山(プサン)を経て、7月12日、那覇港に上陸し、南部島尻、糸満方面の守備に着く。 第9師団の台湾抽出により配置変換が為され、同年12月6日、主力は豊見城へ移駐した。
独速第3大隊は、敵戦車の阻止撃滅を主任務とする部隊。 口径47ミリの1式機動速射砲を主装備とし、当時の主力は、大隊本部(1門)、第1中隊(5門)、特設第3中隊(4門)、大隊段列(1門)の、合計11門が砲口を構えていた。 大隊は、本部を地覇集落(現在の名嘉地・我那覇)に置き、当時「糸満馬車軌道」の通った県道231号線を亘り、ここ田頭集落の高台にかけて布陣。 この壕は、独速第3大隊 第1中隊、戦砲隊の一部が構築したと見られる。
壕の遺された丘陵
田頭集落の北辺、墓所の散在する丘陵の一隅にあたる。
壕は、左手の家型墓の裏手に放置されている。

埋もれた壕口
丘陵の斜面下部に位置し、泥土、落葉の流入が著しい。 壕口には、崩落等の形跡は見られないが、流入泥土により、半場埋没している。

豊見城市の北西、那覇市との境に位置する集落。
瀬長集落の東方、田頭の丘陵に遺る陣地壕(その1)。
開発の波から少々離れるも、瀬長近郊に引き続き、田頭集落に遺る壕について。
瀬長集落から東方へ向かうと、程なく路傍には「田頭のシーサー」が鎮座し、田頭集落へと至る。 彼のシーサーの裏手、北側には、瀬長から続く丘陵が、緑を湛えて横たわる。 丘陵の緑の中には、家型墓が点々と鎮座し、その一隅には、戦時中の壕が捨て置かれている。 忘れられた如く、半ば泥土に埋もれた壕は、独立速射砲第3大隊(球6403)が遺した物と云われる。
独立速射砲第3大隊は、昭和16年7月17日、香川県丸亀市に於いて編成。 翌月2日、松山の歩兵第22聯隊(山3474)と同じく、坂出港より中国大陸(大連)へ渡り、そして二度と四国の地へ戻る事の無かった部隊である。
昭和19年6月19日、動員下令。 海拉爾(ハイラル)/釜山(プサン)を経て、7月12日、那覇港に上陸し、南部島尻、糸満方面の守備に着く。 第9師団の台湾抽出により配置変換が為され、同年12月6日、主力は豊見城へ移駐した。
独速第3大隊は、敵戦車の阻止撃滅を主任務とする部隊。 口径47ミリの1式機動速射砲を主装備とし、当時の主力は、大隊本部(1門)、第1中隊(5門)、特設第3中隊(4門)、大隊段列(1門)の、合計11門が砲口を構えていた。 大隊は、本部を地覇集落(現在の名嘉地・我那覇)に置き、当時「糸満馬車軌道」の通った県道231号線を亘り、ここ田頭集落の高台にかけて布陣。 この壕は、独速第3大隊 第1中隊、戦砲隊の一部が構築したと見られる。
壕の遺された丘陵
田頭集落の北辺、墓所の散在する丘陵の一隅にあたる。
壕は、左手の家型墓の裏手に放置されている。

埋もれた壕口
丘陵の斜面下部に位置し、泥土、落葉の流入が著しい。 壕口には、崩落等の形跡は見られないが、流入泥土により、半場埋没している。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
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