2012年08月09日
断末魔の島尻 83
糸満市大里 大城の森 7
さとうきび畠の広がる糸満市の中央、島尻大里。
その北辺に横たわる、今は木立ちに覆われた岩山、大城森。
昭和56年に実施された、大城森の埋没壕発掘作業。 厚生省による「遺骨収集」は、延べ3ヶ月の期間、重機を用いての大掛かりなものであった。 しかし軍が所在した事を示す幾つかの遺留品を回収した他、ご遺骨はひと欠片も収容出来なかった。
慰霊碑の建立された昭和41年頃、壕は既に埋没。 その後56年の捜索時には壕口の痕跡も判らぬほど、壕は完全に埋没していたと見られる。 堅固そうな岩山には見えるが、その地下は軟弱な泥土層が広がるらしい。 その為か、短期間に大城森の地下に坑道を張り巡らせ、岩盤の掩蓋を頼りとしていたのであろう。
埋もれた壕口、旧厚生省の手が諦めたそれを探すのは仕様もないこと。 遠からぬ場所に山羊の気配を感じつつ、岩場を覗き、その台上を目指す。 県道77号線側には参道であろう、慰霊碑辺りから山頂へ向かう小径が続いている。 その傍ら、切り立った岩陰には香炉が据えられ、この大城の森自体が古くより、神聖な場所であった事が覗えた。 そこに構築された聯隊本部壕。 厚生省の捜索時、ご遺骨は既に森の奥深くに抱かれ、神々もそれを帰す事を肯んじなかったのであろう。
初春とは云え亜熱帯の太陽、晴天の陽射しは強い。 正中近い眩しい太陽、山頂の祠を見上げつつ、岩場に手を掛け足を伸ばし南の山頂、その台上を目指した。
露出する岩盤
南寄りの中腹、その岩盤の陰には間隙が見られ、戦闘坑或いは、監視哨への坑道跡かもしれない。

南の拝所
2コブある大城森山頂、その南側頂上。 見上げる台上には祠が据えられている。

さとうきび畠の広がる糸満市の中央、島尻大里。
その北辺に横たわる、今は木立ちに覆われた岩山、大城森。
昭和56年に実施された、大城森の埋没壕発掘作業。 厚生省による「遺骨収集」は、延べ3ヶ月の期間、重機を用いての大掛かりなものであった。 しかし軍が所在した事を示す幾つかの遺留品を回収した他、ご遺骨はひと欠片も収容出来なかった。
慰霊碑の建立された昭和41年頃、壕は既に埋没。 その後56年の捜索時には壕口の痕跡も判らぬほど、壕は完全に埋没していたと見られる。 堅固そうな岩山には見えるが、その地下は軟弱な泥土層が広がるらしい。 その為か、短期間に大城森の地下に坑道を張り巡らせ、岩盤の掩蓋を頼りとしていたのであろう。
埋もれた壕口、旧厚生省の手が諦めたそれを探すのは仕様もないこと。 遠からぬ場所に山羊の気配を感じつつ、岩場を覗き、その台上を目指す。 県道77号線側には参道であろう、慰霊碑辺りから山頂へ向かう小径が続いている。 その傍ら、切り立った岩陰には香炉が据えられ、この大城の森自体が古くより、神聖な場所であった事が覗えた。 そこに構築された聯隊本部壕。 厚生省の捜索時、ご遺骨は既に森の奥深くに抱かれ、神々もそれを帰す事を肯んじなかったのであろう。
初春とは云え亜熱帯の太陽、晴天の陽射しは強い。 正中近い眩しい太陽、山頂の祠を見上げつつ、岩場に手を掛け足を伸ばし南の山頂、その台上を目指した。
露出する岩盤
南寄りの中腹、その岩盤の陰には間隙が見られ、戦闘坑或いは、監視哨への坑道跡かもしれない。

南の拝所
2コブある大城森山頂、その南側頂上。 見上げる台上には祠が据えられている。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
│戦 跡