2011年07月12日
沖縄県外の戦争遺跡 20
東京都千代田区 北の丸公園の戦争遺跡 中篇1
人々の息う都会の緑、皇居北辺の北の丸公園。
その一隅に佇むレンガ造りの洋館、陸軍近衛師団司令部庁舎。
北の丸公園の東寄り、牛が淵沿いには武道館、間を置いて科学技術館が立ち、開放された空間を為す。 逆に西寄り、千鳥ヶ淵の側は緑に覆われ、遊歩道は緩やかに起伏し、その合間を縫う様に、水面が横たわる。 早朝の公園は、思い思いに散策する人、水面を眺める人と、実に平和な日常が過ごされている。 都会の只中に広がる緑地、その様子も稀有には思ふ。 しかし何のことはない、その殆どが戦後に造成、植樹された人口の杜である。
敗戦までここは、近衛歩兵2コ聯隊の兵営として、兵舎が並び、営庭が広がっていた。 戦後、悪しき過去を抹消するが如く、その痕跡を全て消し去り、現在の北の丸公園となった。 繰り返される創造と破壊、その一端にしか過ぎない。
その公園の南西端、緑の中に佇む洋館がある。 現在は、東京国立近代美術館工芸館として転用され、美術品の陳列、収蔵に用いられているが、明治43年、陸軍近衛師団司令部庁舎として建築された歴史的建造物である。 戦後、兵営と同様、この庁舎も破壊される運命にあったが、昭和47年、重要文化財に指定。 後に外観の復元、保存工事と併せ、美術館としての改装が為され、昭和52年より現在に至る。
昭和20年、庁舎は近衛第1師団司令部として用いられていたが、同年8月15日の未明、帝国陸軍はここに最後の汚点を刻む、いわゆる「宮城事件」として。 日本の降伏を阻止しようとする将校は、師団長を斬殺し、偽の命令書を発して宮城を占拠。 併せて玉音盤の奪取、破壊を企てた。 結果は自明の事として、大宅 壮一(半藤一利)著「日本のいちばん長い日」等にも表されている。
詳らかな当時の背景、将官との利害関係などは、関係書籍に詳しい。
件の師団司令部での遣り取りは、複数の証言が遺る。 会談の後、蹶起を頑なに拒否した師団長を射殺/斬殺した。 他方、計画遂行の為、問答無用で斬殺したとも云われる。 師団長は天皇の命に従う、「承詔必謹」を堅持し、滅び行く帝国陸軍に殺され、狂気の将校は、計画失敗により多くが「自殺」。 しかし戦後のどさくさを生き延びた者もあったと云う。 関係将校を幕末の志士に例える向きもあるが、五芒星に憑依された狂人を決して同列には置けない。
旧陸軍近衛師団司令部
帝国陸軍最後の汚点、その舞台となった、終戦時の近衛第1師団司令部。
現在は国立近代美術館工芸館として開放され、休館日(月曜)以外は、内部への立入り(拝観)も出来る。 庁舎の前面を首都高の掘割が抜けると云う、全くもって不細工な様は、高度成長期の為せるワザ。 破壊されなかっただけマシか。

北白川宮能久親王銅像
明治36年、砲兵工廠(恐らく東京)にて鋳造、建立された、美術的価値の高い銅像だと云われる。 現在は工芸館の右手、木立の中にに据えられている。
第2代 近衛師団長であった親王も、波乱に満ちた生涯であったと云う。 しかし、その終焉を草葉の陰で如何に思われた事か。

人々の息う都会の緑、皇居北辺の北の丸公園。
その一隅に佇むレンガ造りの洋館、陸軍近衛師団司令部庁舎。
北の丸公園の東寄り、牛が淵沿いには武道館、間を置いて科学技術館が立ち、開放された空間を為す。 逆に西寄り、千鳥ヶ淵の側は緑に覆われ、遊歩道は緩やかに起伏し、その合間を縫う様に、水面が横たわる。 早朝の公園は、思い思いに散策する人、水面を眺める人と、実に平和な日常が過ごされている。 都会の只中に広がる緑地、その様子も稀有には思ふ。 しかし何のことはない、その殆どが戦後に造成、植樹された人口の杜である。
敗戦までここは、近衛歩兵2コ聯隊の兵営として、兵舎が並び、営庭が広がっていた。 戦後、悪しき過去を抹消するが如く、その痕跡を全て消し去り、現在の北の丸公園となった。 繰り返される創造と破壊、その一端にしか過ぎない。
その公園の南西端、緑の中に佇む洋館がある。 現在は、東京国立近代美術館工芸館として転用され、美術品の陳列、収蔵に用いられているが、明治43年、陸軍近衛師団司令部庁舎として建築された歴史的建造物である。 戦後、兵営と同様、この庁舎も破壊される運命にあったが、昭和47年、重要文化財に指定。 後に外観の復元、保存工事と併せ、美術館としての改装が為され、昭和52年より現在に至る。
昭和20年、庁舎は近衛第1師団司令部として用いられていたが、同年8月15日の未明、帝国陸軍はここに最後の汚点を刻む、いわゆる「宮城事件」として。 日本の降伏を阻止しようとする将校は、師団長を斬殺し、偽の命令書を発して宮城を占拠。 併せて玉音盤の奪取、破壊を企てた。 結果は自明の事として、大宅 壮一(半藤一利)著「日本のいちばん長い日」等にも表されている。
詳らかな当時の背景、将官との利害関係などは、関係書籍に詳しい。
件の師団司令部での遣り取りは、複数の証言が遺る。 会談の後、蹶起を頑なに拒否した師団長を射殺/斬殺した。 他方、計画遂行の為、問答無用で斬殺したとも云われる。 師団長は天皇の命に従う、「承詔必謹」を堅持し、滅び行く帝国陸軍に殺され、狂気の将校は、計画失敗により多くが「自殺」。 しかし戦後のどさくさを生き延びた者もあったと云う。 関係将校を幕末の志士に例える向きもあるが、五芒星に憑依された狂人を決して同列には置けない。
旧陸軍近衛師団司令部
帝国陸軍最後の汚点、その舞台となった、終戦時の近衛第1師団司令部。
現在は国立近代美術館工芸館として開放され、休館日(月曜)以外は、内部への立入り(拝観)も出来る。 庁舎の前面を首都高の掘割が抜けると云う、全くもって不細工な様は、高度成長期の為せるワザ。 破壊されなかっただけマシか。

北白川宮能久親王銅像
明治36年、砲兵工廠(恐らく東京)にて鋳造、建立された、美術的価値の高い銅像だと云われる。 現在は工芸館の右手、木立の中にに据えられている。
第2代 近衛師団長であった親王も、波乱に満ちた生涯であったと云う。 しかし、その終焉を草葉の陰で如何に思われた事か。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
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