2011年09月27日
戦世(いくさゆー) 201
南城市大里 重砲兵第7聯隊 本部壕跡 1
大里城址の地下、隆起珊瑚礁の間隙を用いた大型の壕。
重砲兵第7聯隊 その本部指揮所、通信隊の壕として用いられた。
件の 「島添之塔」 その木陰で一息入れると、初夏の蒼空の下、緑の燃える △155高地、大里城址を仰ぎ見た。 通称を「重砲陣地」或いは「砲座跡」などと云われる、重砲第7聯隊(球4152) の本部壕。 それが一体何処に存在するか、この時は全く知る由もなかった。 委細を記録する文献もこの頃はなく、「大里城址の下に位置する」との証言記録、それだけを頼りとしての探索。 城址と思しき岩山、その裾野より、お墓へ向かう小径、獣道を伝い、北斜面を探って行った。
今に思へば無駄な航程、或いは危険な道程を選んだ様にも、振り返えられる。 城址西方の西原集落、そちらを迂回すれば道も在り、集落の方に、事前情報を得られたやも知れない。 しかしこの頃は、探している物、場所が特異な由、地元の方との接触は、好んでは行わなかった。 近年に至り、それもやや易くはなったが、ひと様の心の闇に触れかねない、常に繊細な事と思っている。
お墓の脇道を伝い、城址の直下、岩山の裾野を辿って行くと、半ば崩れた小径が、崖を上る様に遺る。 崖の下には掘り込み墓が点々と、更に中腹にも数基見られる。 中腹の再建されたお墓、その間には、打ち崩れた壕が点々と開口し、兵士が身を寄せたのであろう。 奥行きの浅い壕、その壁面は煤け、火を使った痕跡が遺る。 木々の合間に遺る、得も知れぬ朽ちた遺構に、ここが戦跡である事と再認識。 汗を拭い、雑木の中で崖を見上げ、聯隊本部壕も遠からぬ事を感じた。
崩落した壕跡(2002年3月撮)
掘り込み墓を利用した壕か、奥行きは5メートル以上有ったが、入口が狭く、内部を検めてはいない。

小さな開放壕
奥行きは3メートル程と、雨露を凌げる程度の軒だが、その片隅には、長期間火を焚いていた痕跡が見られた。 今に思えば、誰かが遺骨の捜索を行った形跡にも見える

大里城址の地下、隆起珊瑚礁の間隙を用いた大型の壕。
重砲兵第7聯隊 その本部指揮所、通信隊の壕として用いられた。
件の 「島添之塔」 その木陰で一息入れると、初夏の蒼空の下、緑の燃える △155高地、大里城址を仰ぎ見た。 通称を「重砲陣地」或いは「砲座跡」などと云われる、重砲第7聯隊(球4152) の本部壕。 それが一体何処に存在するか、この時は全く知る由もなかった。 委細を記録する文献もこの頃はなく、「大里城址の下に位置する」との証言記録、それだけを頼りとしての探索。 城址と思しき岩山、その裾野より、お墓へ向かう小径、獣道を伝い、北斜面を探って行った。
今に思へば無駄な航程、或いは危険な道程を選んだ様にも、振り返えられる。 城址西方の西原集落、そちらを迂回すれば道も在り、集落の方に、事前情報を得られたやも知れない。 しかしこの頃は、探している物、場所が特異な由、地元の方との接触は、好んでは行わなかった。 近年に至り、それもやや易くはなったが、ひと様の心の闇に触れかねない、常に繊細な事と思っている。
お墓の脇道を伝い、城址の直下、岩山の裾野を辿って行くと、半ば崩れた小径が、崖を上る様に遺る。 崖の下には掘り込み墓が点々と、更に中腹にも数基見られる。 中腹の再建されたお墓、その間には、打ち崩れた壕が点々と開口し、兵士が身を寄せたのであろう。 奥行きの浅い壕、その壁面は煤け、火を使った痕跡が遺る。 木々の合間に遺る、得も知れぬ朽ちた遺構に、ここが戦跡である事と再認識。 汗を拭い、雑木の中で崖を見上げ、聯隊本部壕も遠からぬ事を感じた。
崩落した壕跡(2002年3月撮)
掘り込み墓を利用した壕か、奥行きは5メートル以上有ったが、入口が狭く、内部を検めてはいない。

小さな開放壕
奥行きは3メートル程と、雨露を凌げる程度の軒だが、その片隅には、長期間火を焚いていた痕跡が見られた。 今に思えば、誰かが遺骨の捜索を行った形跡にも見える

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
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