2011年09月26日

大和世(やまとゆー) 140

南城市大里大里 島添之塔
大里城址の北側斜面、通称大里内原に佇む慰霊塔。

この慰霊塔と行き会ったのは、大里城址に遺る通称「重砲陣地」、重砲兵第7聯隊 その本部壕跡を訪ねた際である。 最初は板良敷から雨乞森の東斜面を渡り、 「馬天射堡」 の遺構を捜索。 不確かな情報による大徒労は、この頃に端を発している。
その後、大里城址へと目標を変え、炎天下の舗装路をひたすらに歩いたものだ。 やがて左手には緑の稜線が続き、大里城址 △155高地の北面に来た事が判る。 高地の東方、住宅地の附近からは道路が続くものの、えらく遠回りとなる。 よって城址の直下から登坂すべく、小径、獣道を漁っている際、この慰霊塔と会った。

塔は納骨堂と併せ、昭和31年6月、大里村により建立。 詳らかな事は不明ながら、山野に散るご遺骨を収容した、集落毎の納骨所、埋葬地、これ等を改葬、或いは遷座し、合わせ祭ったものと思慮される。 しかし、道路を挟んだ運動場と比して、辺鄙な処に過ぎないか、とは思う。

平成18年、合併により、その名を消した大里村。 今は南城市の地区名にしか過ぎない大里。 かつての琉球王国時代、南山城の在る大里と区別の為、此方を島添大里、他方を島尻大里と呼称。 後に島尻大里間切は高嶺間切と改め、島添大里間切は大里間切とされ、島添の冠は古のものとなった。 しかし塔の命名にあたり、島添えの名を特に冠したものと思われる。

 島添之塔
木々の下に佇む慰霊塔は、朴訥としたコンクリート製。 納骨堂を兼ね、戦後の浅い時期に建立された慰霊碑、それ等と共通の意匠と思ふ。 それは良いのだが、ひと気は絶えて久しく、香華も涸れた慰霊碑には、唯々溜息がでる。
大和世(やまとゆー) 140

 遷座された慰霊碑
左 「慰霊塔」 右は 「無名兵士」だったと記憶するが、定かでない。
大和世(やまとゆー) 140

 墓標
「共同墓地」と刻まれた墓標。 由来などは不明。
大和世(やまとゆー) 140



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Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)慰霊碑
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