2014年05月15日

沖縄県外の戦争遺跡 84

福岡県北九州市 門司港と周辺 6 / 最終章
かつて近代日本の輸出入を支え、
戦地への玄関口ともなった、旧門司港と周辺

門司港駅より距離を置く和布刈地区には、海峡沿いに和布刈神社、内陸には和布刈公園が広がり、頭上には関門大橋、そして足下には関門国道トンネル、人道通路に通じる。 和布刈公園にはトロッコ列車が通じ、古城山には砲台跡が残存。 休日には観光地然とする、和布刈沿いの路傍に、ひとつの石碑が佇んでいる。 海峡を見渡す様に立つ自然石、そこには「殉職船員無縁塚」と刻まれ、傍らの石柱には数多の海運会社の名前が連なる。 由来記に拠れば太平洋戦争中、関門港と附近で殉職した無縁の海事従事者、3百余名を祭る慰霊碑であった。

昭和17年、既に日本近海にも敵潜は出没し、商船は被害を受けていたが、敵魚雷の性能は低く、命中しても不発のまま魚雷を腹に帰港する船舶もあった。 しかし1年間で敵魚雷の性能は向上。 併せて輸送船を標的とした「群狼作戦」を展開し、「消耗」の度合いは急激に上昇する。
軍部は船舶の需要増を見込み、昭和16年の起工船より戦時標準設計船(第1次戦標船)の仕様に基づく事としていた。 しかし船舶の喪失は予想を遥かに上回り、ここに於いて第2次戦標船の仕様が(海軍)艦政本部によって決定される。 電気溶接工法を多用し、ブロック建造方式を用いる新手法はまだしも、復原性に大きく関係する二重底は全廃され、文字通り「板子一枚下は地獄。 更に大型機関の製造は時間を要する為、出力の小さい速力の遅い船が粗製乱造され、敵潜の攻撃を振り切る事も出来ず、徒に犠牲は増すばかりであった。

鉄路と海路の交差点、門司港であったが、昭和20年3月5日 空襲により港湾施設は壊滅、更に3月27日、敵は「飢餓作戦」を実行する。 B-29により沈底式の機雷を大量に投下し、瀬戸内、関門航路は、機帆船などの木造小型船を除いて航行不能。 日本側の防空、海面掃海も役には立たず、門司港は事実上その機能を停止する。

日本海軍は歯牙にも掛けなかった商船隊を護れず、結果自らの燃料にさえも困窮した。 一方で海没した徴用船舶の乗員は、掩護対象として本人の好むと好まざるとに関らず、自動的に九段に祭られている。 しかし非徴用船舶、雑種船の乗員、沖仲仕などの港湾荷役従事者、彼等は徴用船の荷役に就いていようとも掩護の対象とはならず、その死を顧みられる事も少ない。

 殉職船員無縁塚
建立は昭和21年1月ながら、諸事情により平成12年3月、現在地に移設される。
沖縄県外の戦争遺跡 84

 同碑と関門海峡
関門周辺の機雷掃海が完了し、安全宣言の出されるのは昭和24年10月。
地道な掃海作業しか手立てはなく、敗戦後も被害は続出。 早鞆瀬戸では昨年7月にも爆破処理が行われた。
沖縄県外の戦争遺跡 84

地図はこちら
※バス停 和布刈公園前近く※


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