2015年03月31日

沖縄に潰えた軍旗 31

歩兵第22聯隊 31
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡

昭和19年11月13日、大本営は第32軍麾下より1コ師団を台湾へ転用する事と決し、「沖縄に在る最精鋭師団を抽出する。 その選定は軍司令官に一任する。」との命令を発した。 既に前月、第32軍は2コ迫撃砲大隊を南方へ抽出され、作戦計画(敵上陸軍の橋頭堡破砕)に支障を生じ、更に今回は作戦配備の完了した1コ師団を引き抜かれ、全面的な配備、作戦の変更を余儀なくされる。

一任された「最精鋭師団」の選定にあたっては、第24師団の砲兵隊、野砲兵第42聯隊(山3480)の火力を買ってと云うのが専らである。 しかし、実戦経験を持つ幹部を擁する歩兵第22聯隊、その存在も少なからず影響したと思われる。
結果、第9師団(武兵団)が台湾へ移動するのだが、同師団は太平洋戦争の期間を通じ、実戦に参加することなく敗戦を迎える。 当時の情勢では、敵は沖縄より南に位置する台湾の攻略を先行するものと見られ、或いは「哀れ」に見送ったとも思われる。 しかし、その心境を綴った文書を見た例はない。 何が幸いするかは判らないが、之が聯隊(第24師団)にとって大きな岐路であった。

昭和19年12月に入ると、第9師団は小部隊に分かれ、徐々に台湾へと移動を開始する。 既に日本近海に敵潜は跳梁し、1コ師団を輸送する船団を沖縄へ廻航する余裕などはなく、第9師団の移動は沖縄近在の機帆船によって行われた。
第24師団の南部移動は夜行軍によって行われ、歩兵第89聯隊(山3476)の記録に拠れば、それは「は号演習」と称され、同聯隊は12月6日夕刻に出発している。 歩兵第22聯隊は、中隊毎に分かれ那覇を目指して行軍を開始。 それは昭和19年12月10日の夕刻、雨模様の空であったと云われる。

 沖縄県護国神社
当時は運動公園はなく、広場も狭く、聯隊の目的地として大隊毎の集結に用いられた。
沖縄に潰えた軍旗 31

 弾痕
三の鳥居脇には、弾痕の刻まれた戦前からの石灯籠が佇む。
昭和13年に奉納された石灯籠は、間違いなく聯隊最後の勇姿を見ている。
沖縄に潰えた軍旗 31



タグ :那覇市

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Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)弾 痕
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