2016年05月20日

戦世(いくさゆー) 494

与那原町上与那原 平敷軍曹の墓 / 後篇
忘れ去られた軍神(その2)
 県道脇の高台で夏草に埋もれる、平敷軍曹の墓


上与那原に戦線が膚接したのは、昭和20年5月20日頃と考えられる。 5月17日、 大里城址 に布陣する重砲兵第7聯隊(球4152)は、敵の砲爆の集中を受け、第3中隊の火砲は潰滅。 残存する第2中隊の火砲を以て、運玉森△161高地の支援、並びに東海岸道の側防砲火を維持していた。 しかし数日後、東海岸では敵の突破を許しており、同時に与那原市街は敵手に陥ち、雨乞森△135高地には敵歩兵群が迫るなど、聯隊の残存火砲、弾薬は、何れも僅かであったと思われる。

お墓に刻まれた夥しい弾痕、その多くは小口径の弾痕であり、盲貫、貫通痕が混在する。 そして弾道は水平、或いは庇の陰を抉る上向きの弾道であり、附近で接近戦の繰り広げられた証左であろう。 この丘陵に散兵線の敷かれた記録はないが、海岸道より西進する敵を俯瞰する好位置にあり、小競合いのあった事は容易に想像出来る。

太平洋戦争の黎明に歿した軍曹の墓は、沖縄戦で数多の銃弾、弾片を浴び、おどろおどろしい姿のままで今も丘陵に端座している。 激戦地に近い墓所では、この様な亀甲墓が数多く在ったと云うが、今は改修され、戦禍の痕跡は殆ど見られない。 その対照的な身なりは、戦火の恐ろしさと共に、軍曹の墓の辿った戦後の数奇な運命をも暗に示している。

 背後より
航空機による掃射は受けなかったらしく、屋根に損傷は見えない。
人々が最敬礼した石段は県道の拡幅に削られ、敵の通った途には車列が続く。
戦世(いくさゆー) 494

 弾痕
左側面に刻まれた、夥しい数の弾痕と破片創。
戦世(いくさゆー) 494

※地図は 戦世(いくさゆー) 492 追記をご覧下さい※



タグ :与那原町

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Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)弾 痕
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