2017年03月05日
戦世(いくさゆー) 501
うるま市平敷屋 とうの御嶽 後篇
旧勝連町 勝連半島の南端、
平敷屋集落の住宅街に位置する拝所
神石をお祀りするコンクリート製の小さな祠、その右手には弾痕が刻まれている。 これと云った説明板もなく、その所以は判然としない。 しかし見立てに拠れば、敵機に拠る機銃掃射、7.7ミリ徹甲弾の貫通痕と考えられる。
平敷屋は勝連半島南端の高台に位置し、明治末期迄は附近行政の中心として繁栄したと云う。 今は中城湾口、金武湾に面するなど、平敷屋の地理的要件が更に関係し、中城湾側に米海軍のホワイトビーチ地区(FAC6048)、半島南端にかけて海上自衛隊沖縄基地隊が駐屯する。
沖縄戦の直前まで平敷屋には、独立歩兵第12大隊(石3593)第5中隊の1コ分隊が監視隊として所在。 遡る昭和16年、集落南の高台には中城湾臨時要塞の防空隊により高射砲陣地が設けられ、専ら軍事拠点としての重要性が顕在化する。
被弾の時期は定かでないが、近隣 勝連の製糖工場 の空襲、大破と同時期であろう。 但し、 並里神社 の様に、祠を標的としたものではなく、流れ弾の一弾と思われる。
斯様な穴ボコのひとつ、補修も容易いものの敢えて遺す意味、それは何処も同じであると思われる。
弾痕
銃弾の入口と考えられる、比較的小さなコンクリートの剥離。

弾痕
祠の内部、貫通した銃弾の出口と考えられる。
弾道は見上げる向きであり、銃弾は高所より飛来した事が覗える。

旧勝連町 勝連半島の南端、
平敷屋集落の住宅街に位置する拝所
神石をお祀りするコンクリート製の小さな祠、その右手には弾痕が刻まれている。 これと云った説明板もなく、その所以は判然としない。 しかし見立てに拠れば、敵機に拠る機銃掃射、7.7ミリ徹甲弾の貫通痕と考えられる。
平敷屋は勝連半島南端の高台に位置し、明治末期迄は附近行政の中心として繁栄したと云う。 今は中城湾口、金武湾に面するなど、平敷屋の地理的要件が更に関係し、中城湾側に米海軍のホワイトビーチ地区(FAC6048)、半島南端にかけて海上自衛隊沖縄基地隊が駐屯する。
沖縄戦の直前まで平敷屋には、独立歩兵第12大隊(石3593)第5中隊の1コ分隊が監視隊として所在。 遡る昭和16年、集落南の高台には中城湾臨時要塞の防空隊により高射砲陣地が設けられ、専ら軍事拠点としての重要性が顕在化する。
被弾の時期は定かでないが、近隣 勝連の製糖工場 の空襲、大破と同時期であろう。 但し、 並里神社 の様に、祠を標的としたものではなく、流れ弾の一弾と思われる。
斯様な穴ボコのひとつ、補修も容易いものの敢えて遺す意味、それは何処も同じであると思われる。
弾痕
銃弾の入口と考えられる、比較的小さなコンクリートの剥離。

弾痕
祠の内部、貫通した銃弾の出口と考えられる。
弾道は見上げる向きであり、銃弾は高所より飛来した事が覗える。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
│弾 痕