2017年04月10日
戦世(いくさゆー) 502
今帰仁村上運天 上運天のお宮 前篇
運天港の北に位置する緑濃い丘陵、
その頂近くに鎮座する上運天の御願所
もとを辿れば 上運天の慰霊塔 を探している際、偶然に行き着いた場所である。 上運天公民館の裏手、慰霊塔から距離を隔てた杜を上運天の御嶽、或いはウンシマヌ御願所と称し、現代にも伝わる上運天の祭祀を司る聖域である。 山頂への小径を辿ると、緑の下からお宮が顔を覗かせ、その奥には神アサギ、祠には村屋(ムラヤー)の神々が祀られている。 コンクリート瓦とブロックを積んだ、粗末な祠に小さな神アサギながら、人々が手入れを欠かさぬ事は直ぐに見て取れた。 その中でお宮、神殿だけは、瀟洒で偉丈夫な姿であった。
神殿の右手に立つ「神殿改築紀念碑」に拠れば、神殿は「皇紀二千六百年(1940年)昭和十五年十二月八日」に改築(竣工)したものである。 この紀元二千六百年記念行事は、昭和5年の 御大禮記念 に次ぐ祝賀行事であった。 しかし時既に日中戦争の泥沼にあり、奉祝も神道色の極めて強いものであったと云われる。 沖縄ではその折、御嶽が神社として合祀され、姿を変えた処も少なくはないと云う。 また偶然ではあろうが、改築年月日の昭和5年12月8日と云う日付けは、何やら因縁めいた物を感じる。
お宮さん
神殿とも称されるコンクリート製の拝殿、内部には霊石が祀られている。

村屋
写真は地頭代の村屋、他に神アサギ、根屋など、祭祀の場所が守られている。

運天港の北に位置する緑濃い丘陵、
その頂近くに鎮座する上運天の御願所
もとを辿れば 上運天の慰霊塔 を探している際、偶然に行き着いた場所である。 上運天公民館の裏手、慰霊塔から距離を隔てた杜を上運天の御嶽、或いはウンシマヌ御願所と称し、現代にも伝わる上運天の祭祀を司る聖域である。 山頂への小径を辿ると、緑の下からお宮が顔を覗かせ、その奥には神アサギ、祠には村屋(ムラヤー)の神々が祀られている。 コンクリート瓦とブロックを積んだ、粗末な祠に小さな神アサギながら、人々が手入れを欠かさぬ事は直ぐに見て取れた。 その中でお宮、神殿だけは、瀟洒で偉丈夫な姿であった。
神殿の右手に立つ「神殿改築紀念碑」に拠れば、神殿は「皇紀二千六百年(1940年)昭和十五年十二月八日」に改築(竣工)したものである。 この紀元二千六百年記念行事は、昭和5年の 御大禮記念 に次ぐ祝賀行事であった。 しかし時既に日中戦争の泥沼にあり、奉祝も神道色の極めて強いものであったと云われる。 沖縄ではその折、御嶽が神社として合祀され、姿を変えた処も少なくはないと云う。 また偶然ではあろうが、改築年月日の昭和5年12月8日と云う日付けは、何やら因縁めいた物を感じる。
お宮さん
神殿とも称されるコンクリート製の拝殿、内部には霊石が祀られている。

村屋
写真は地頭代の村屋、他に神アサギ、根屋など、祭祀の場所が守られている。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
│旧跡・文化