2013年10月21日
大和世(やまとゆー) 251
豊見城市名嘉地 瀬長亀次郎氏墓所
沖縄を代表する政治家のお墓、
名嘉地の畠地、小径の傍らに一族と共に眠る
徒歩で戦跡を巡り、歩行者の目線で街中を行くとき、時として予想外の事物に出会う、或いは発見する事もある。 この時は偶々、瀬長より田頭へ、 歩兵第22聯隊の壕跡 、 独立速射砲第3大隊の壕 などを案内した帰路であった。 名嘉地の畠道を歩いていると、数台の乗用車と共に、その場に似合わない御一行を望見。 彼らの去った傍らに、このお墓が鎮座していた。 それが墓参でなかろう事は、彼等10名程の年齢構成と出で立ちで想像出来たのだが、やはりそこに供花はなかった。 少々変わった意匠ながら、何の変哲もない変哲もない墓所。 立てられた墓標、表面には門中が記されるも、その裏面には「瀬長亀次郎書」と刻まれていた。
瀬長亀次郎氏は明治40年 豊見城村我那覇にて生まれる。 戦前から社会主義運動などに加わり、昭和7年には治安維持法違反によって検挙、投獄される。 戦後は立法院議員、那覇市長などに就き、一貫して米軍の圧政に抗した。 斯様な県民の絶大な支持の下、復帰後も衆議院議員として7期当選、日本共産党副委員長などを歴任。 平成2年に政治活動を引退し、平成13年に死去。 享年は94歳であった。
氏の考えに傾倒した訳もなく、「墓マイラー」でもないが、学生時代に耳にした事のある名前である。 奇遇とは思いつつ脱帽し一礼。
観光地ではなく、縁所縁もない当方は、そそくさとその場を後にした。
瀬長家墓所
左右非対称の少々変わった意匠ながら、規模、装飾など、何の変哲もない家型墓である。

墓標
外部より瀬長亀次郎氏の眠る事が判る、唯一の証。

沖縄を代表する政治家のお墓、
名嘉地の畠地、小径の傍らに一族と共に眠る
徒歩で戦跡を巡り、歩行者の目線で街中を行くとき、時として予想外の事物に出会う、或いは発見する事もある。 この時は偶々、瀬長より田頭へ、 歩兵第22聯隊の壕跡 、 独立速射砲第3大隊の壕 などを案内した帰路であった。 名嘉地の畠道を歩いていると、数台の乗用車と共に、その場に似合わない御一行を望見。 彼らの去った傍らに、このお墓が鎮座していた。 それが墓参でなかろう事は、彼等10名程の年齢構成と出で立ちで想像出来たのだが、やはりそこに供花はなかった。 少々変わった意匠ながら、何の変哲もない変哲もない墓所。 立てられた墓標、表面には門中が記されるも、その裏面には「瀬長亀次郎書」と刻まれていた。
瀬長亀次郎氏は明治40年 豊見城村我那覇にて生まれる。 戦前から社会主義運動などに加わり、昭和7年には治安維持法違反によって検挙、投獄される。 戦後は立法院議員、那覇市長などに就き、一貫して米軍の圧政に抗した。 斯様な県民の絶大な支持の下、復帰後も衆議院議員として7期当選、日本共産党副委員長などを歴任。 平成2年に政治活動を引退し、平成13年に死去。 享年は94歳であった。
氏の考えに傾倒した訳もなく、「墓マイラー」でもないが、学生時代に耳にした事のある名前である。 奇遇とは思いつつ脱帽し一礼。
観光地ではなく、縁所縁もない当方は、そそくさとその場を後にした。
瀬長家墓所
左右非対称の少々変わった意匠ながら、規模、装飾など、何の変哲もない家型墓である。

墓標
外部より瀬長亀次郎氏の眠る事が判る、唯一の証。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
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