2017年06月04日
沖縄に潰えた軍旗 81
歩兵第22聯隊 81
通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
昭和20年4月20日頃より、第32軍司令部では第24師団の北方転用が討議されていた。 これまで島尻への新部隊上陸を恐れ、兼城村から摩文仁村に掛けての海岸線に師団の2コ聯隊を張付け、具志頭村以東には独立混成第44旅団を配置。 他にも高射機関砲部隊(機関砲第105大隊)の一部を島尻に置き、落下傘部隊による後方擾乱を警戒していた。 これ等は港川への 欺瞞上陸 、敵の陽動作戦に掛かった結果である。 しかし参謀長は、軍主力の北上を決断。 続いて司令官は4月22日、軍主力の北上を決定する。
この時、併せて戦線の整理が行われ、歩兵第22聯隊は石部隊の所在する 上原△157高地 から、第2大隊の所在する 棚原△154.9高地 、第1大隊の所在する幸地の線の占領を命令される。
しかし聯隊長は、事実上2コ大隊の兵力を鑑み、我謝~小波津~翁長北方高地~幸地の線とする事を意見具申して許可を得る。 そして翌日から、第2大隊は棚原を撤収し幸地西方から石嶺に布陣。 聯隊は死地となる幸地を中心とした陣地に布陣を完了する
棚原高地より南方(2004年4月撮)
棚原高地の南沿より望む幸地方面の景色。
第2大隊の退路となる坂田から幸地への低地帯、地平左端に運玉森、中央右に幸地南方高地、右端に△140高地の給水塔が見える。

通称号 山3474部隊、第24師団 歩兵第22聯隊の軌跡
昭和20年4月20日頃より、第32軍司令部では第24師団の北方転用が討議されていた。 これまで島尻への新部隊上陸を恐れ、兼城村から摩文仁村に掛けての海岸線に師団の2コ聯隊を張付け、具志頭村以東には独立混成第44旅団を配置。 他にも高射機関砲部隊(機関砲第105大隊)の一部を島尻に置き、落下傘部隊による後方擾乱を警戒していた。 これ等は港川への 欺瞞上陸 、敵の陽動作戦に掛かった結果である。 しかし参謀長は、軍主力の北上を決断。 続いて司令官は4月22日、軍主力の北上を決定する。
この時、併せて戦線の整理が行われ、歩兵第22聯隊は石部隊の所在する 上原△157高地 から、第2大隊の所在する 棚原△154.9高地 、第1大隊の所在する幸地の線の占領を命令される。
しかし聯隊長は、事実上2コ大隊の兵力を鑑み、我謝~小波津~翁長北方高地~幸地の線とする事を意見具申して許可を得る。 そして翌日から、第2大隊は棚原を撤収し幸地西方から石嶺に布陣。 聯隊は死地となる幸地を中心とした陣地に布陣を完了する
棚原高地より南方(2004年4月撮)
棚原高地の南沿より望む幸地方面の景色。
第2大隊の退路となる坂田から幸地への低地帯、地平左端に運玉森、中央右に幸地南方高地、右端に△140高地の給水塔が見える。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
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