2009年09月19日
10.10空襲 10
今帰仁村 運天港 海軍基地
屋我地島 運天原の水面から望む運天港ターミナル。
(05年10月撮)
係留中の船は伊是名島行きの「フェリーいぜな」、他に伊平屋島行きの「フェリーいへや」が就航。
以前は屋我地島、古宇利島行きの航路も就航していたが、架橋により廃止。瀬戸内と同様、架橋による悲喜交々は南の島にもある。
昭和19年8月末、ここ運天に第27魚雷艇隊が到着、9月初旬に第2蛟龍隊が回航され、海軍施設部隊 第226設営隊と勤労奉仕により、約1月の突貫工事によって基地設備が建設された。
基地完成目前の当日、07:35に第一陣の襲来、第四次空襲の終わる14:25迄、徹底的に叩かれた。
港口に仮泊中の陸軍輸送船2杯、港内の機帆船住吉丸/北進丸は沈没。瑞博丸は抜錨、屋我地へ任意座礁をし、辛くも沈没を逃れた。
魚雷艇隊は全艇18杯中、12杯が沈没し残存艇も被害。 蛟龍隊も2杯が被弾する。
人身の被害はもとより、地下壕以外の基地設備は灰燼に帰した。
現在は埋め立てられた岸壁辺りに蛟龍隊が繋留し、更に羽地寄りの自然海岸に魚雷艇隊が繋留していた。
ターミナル周辺には、現在も魚雷格納壕、主機調整壕が残り、屋我地島にもそれらしき遺物が残る。
しかし、此の日に始まった空襲、艦砲射撃の悲惨さ、恐ろしさを語る物は散見されない。
空はあまりにも蒼く、その日の出来事を想像する事さへ、かなわなかった。

屋我地島 運天原の水面から望む運天港ターミナル。
(05年10月撮)
係留中の船は伊是名島行きの「フェリーいぜな」、他に伊平屋島行きの「フェリーいへや」が就航。
以前は屋我地島、古宇利島行きの航路も就航していたが、架橋により廃止。瀬戸内と同様、架橋による悲喜交々は南の島にもある。
昭和19年8月末、ここ運天に第27魚雷艇隊が到着、9月初旬に第2蛟龍隊が回航され、海軍施設部隊 第226設営隊と勤労奉仕により、約1月の突貫工事によって基地設備が建設された。
基地完成目前の当日、07:35に第一陣の襲来、第四次空襲の終わる14:25迄、徹底的に叩かれた。
港口に仮泊中の陸軍輸送船2杯、港内の機帆船住吉丸/北進丸は沈没。瑞博丸は抜錨、屋我地へ任意座礁をし、辛くも沈没を逃れた。
魚雷艇隊は全艇18杯中、12杯が沈没し残存艇も被害。 蛟龍隊も2杯が被弾する。
人身の被害はもとより、地下壕以外の基地設備は灰燼に帰した。
現在は埋め立てられた岸壁辺りに蛟龍隊が繋留し、更に羽地寄りの自然海岸に魚雷艇隊が繋留していた。
ターミナル周辺には、現在も魚雷格納壕、主機調整壕が残り、屋我地島にもそれらしき遺物が残る。
しかし、此の日に始まった空襲、艦砲射撃の悲惨さ、恐ろしさを語る物は散見されない。
空はあまりにも蒼く、その日の出来事を想像する事さへ、かなわなかった。
Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
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