2011年01月14日

開発の影で消える戦跡 99

中城村南上原 △155高地 7
中城村南上原 県道29号線の東方、中城調整池のある高台。
高地の頂、調整池を中心に、糸蒲公園として整備されつつある。

中城湾を背に立つ糸蒲の塔(イトマのトウ)。 県内各所の慰霊碑の中でも、比較的訪れやすく、風光明媚な立地ながら、訪れる人影には行き会ったためしがない。 いつ来ても香華さへ無いが、荒れる事もなく唯一人、ポツンと佇んでいる。
古い写真に拠れば、戦後6年目の頃、琉球石灰岩による粗末な納骨堂を同位置に建立。 命名の由来は背後の斜面。 津覇集落の人々は、木々に覆われた杜に糸浦の御嶽を据え、古くより崇め称した事による。 地元の有志によって建立されたと云うが、朴訥とした納骨堂は昭和44年に改められ、碑文が付加されている。

軍の威光を記した文言も障るが、独歩第11大隊の事に触れない文言もまた同じく。
初代「糸蒲の塔」を建立した南上原の人々、捨て石とされた将兵、県民、そしてこの地に斃れた独歩第11大隊、歩第22聯隊第1大隊の将兵は、草葉の影で如何に思いあろう。 建立者の志からは離れ、慰めに通う人も絶えたのであろうか。

 糸蒲の塔(2004年5月撮)
碑文は塔の下段に嵌め込まれた、黒御影の石板に刻まれている。
 (碑文は下記)
開発の影で消える戦跡 99

 糸蒲の塔と中城湾、知念半島(2007年1月撮)
時既に、区画整理事業の波は塔の近くまで及んでいたが、公園として禿山になるとは思いもしなかった。
開発の影で消える戦跡 99
「糸蒲の塔 / 碑文」
独立歩兵第12大隊(石3593部隊、賀谷與吉中佐)隷下将兵はこの地に陣を構築し、破竹の進撃を続ける米軍に対し勇戦奮闘。 敵の心胆を寒からしめたるも、昭和20年4月戦死者続出せり。 昭和26年2月地元有志相はかり、散華せる将兵の遺骨約800柱を奉納し、糸蒲の塔と名づけしが、このたび南方同胞援護会の助成を得て新たに塔を建てその遺烈を伝う。
昭和44年3月 (句読点付加、原文は縦書き)



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Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)慰霊碑
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