2013年03月10日
沖縄県外の戦争遺跡 48
東京都台東区/墨田区 言問橋 前篇
台東区と墨田区の狭間を流れる隅田川、その両岸をつなぐ鉄骨の橋梁。
震災復興事業として架橋された橋は、東京大空襲の戦禍を記憶する。
今日は都条例に基づく東京都平和の日。 本所、横網町公園(よこあみちょう)の 東京都慰霊堂 では春季の大法要の営まれている頃である。 何の事かと云うならば、今日は東京大空襲より68年目、3月10日未明、一夜にして消された10万余名の東京都民、その命日にあたる。
帝都東京にに対する無差別攻撃、特に3月10日の大空襲に関しては、 旧浅草三筋町の電柱 、或いは 旧墨田電話局の慰霊碑 の稿にも詳しいので、そちらをご参照の程願います。
敵機は昭和20年3月9日深夜、東京上空に侵入。 翌10日未明、深川より開始された投弾は隅田川を遡上。 折からの強風と相俟って、両岸の浅草地区、本所地区にも業火は迫った。 隅田川で隔てられた両地区、その間を繋ぐ言問橋。 炎に追われし人々は逃げ場を求め、対岸を目指して言問橋へ殺到した。 しかし人波は両の岸から押し寄せ、橋上に人々は溢れて逃げ場を失い、やがて頭上を焼夷弾、火災旋風が襲った。
欄干を越え暗い川面に身を躍らせる人々、焼夷弾の直撃を受け燃え上がる人、火焔に焼かれ、或いは窒息する人々。 言問橋の橋上には、阿鼻叫喚の地獄絵図が現出したと云う。 そして一夜が明け、鎮火せぬ黒煙の下、隅田川の川面を死体が覆い、橋上には黒焦げの死体、そして河川敷にも累々たる屍の山が築かれていた。
その業火の痕跡は言問橋の東西、その親柱に黒々と遺り、処々には欠損も見られる。 さらに橋上の縁石は割れ、晒された炎熱、その凄まじさを物語っていた。
そしてこの「言問橋」、この橋は戦禍の記憶と併せ、別の一面をも持っていた。
言問橋 親柱
大阪の堂島大橋 ほどではないが黒々とし、炎熱による割れが見られる。(墨田側上流)

旧欄干と縁石
江戸東京博物館(両国)に保存される言問橋の旧欄干と縁石。
他にも隅田公園の浅草岸、言問橋上流側の慰霊碑脇に遺る。

台東区と墨田区の狭間を流れる隅田川、その両岸をつなぐ鉄骨の橋梁。
震災復興事業として架橋された橋は、東京大空襲の戦禍を記憶する。
今日は都条例に基づく東京都平和の日。 本所、横網町公園(よこあみちょう)の 東京都慰霊堂 では春季の大法要の営まれている頃である。 何の事かと云うならば、今日は東京大空襲より68年目、3月10日未明、一夜にして消された10万余名の東京都民、その命日にあたる。
帝都東京にに対する無差別攻撃、特に3月10日の大空襲に関しては、 旧浅草三筋町の電柱 、或いは 旧墨田電話局の慰霊碑 の稿にも詳しいので、そちらをご参照の程願います。
敵機は昭和20年3月9日深夜、東京上空に侵入。 翌10日未明、深川より開始された投弾は隅田川を遡上。 折からの強風と相俟って、両岸の浅草地区、本所地区にも業火は迫った。 隅田川で隔てられた両地区、その間を繋ぐ言問橋。 炎に追われし人々は逃げ場を求め、対岸を目指して言問橋へ殺到した。 しかし人波は両の岸から押し寄せ、橋上に人々は溢れて逃げ場を失い、やがて頭上を焼夷弾、火災旋風が襲った。
欄干を越え暗い川面に身を躍らせる人々、焼夷弾の直撃を受け燃え上がる人、火焔に焼かれ、或いは窒息する人々。 言問橋の橋上には、阿鼻叫喚の地獄絵図が現出したと云う。 そして一夜が明け、鎮火せぬ黒煙の下、隅田川の川面を死体が覆い、橋上には黒焦げの死体、そして河川敷にも累々たる屍の山が築かれていた。
その業火の痕跡は言問橋の東西、その親柱に黒々と遺り、処々には欠損も見られる。 さらに橋上の縁石は割れ、晒された炎熱、その凄まじさを物語っていた。
そしてこの「言問橋」、この橋は戦禍の記憶と併せ、別の一面をも持っていた。
言問橋 親柱
大阪の堂島大橋 ほどではないが黒々とし、炎熱による割れが見られる。(墨田側上流)

旧欄干と縁石
江戸東京博物館(両国)に保存される言問橋の旧欄干と縁石。
他にも隅田公園の浅草岸、言問橋上流側の慰霊碑脇に遺る。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
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