2013年06月17日
忘れられた激戦地 251
西原町翁長 第62師野戦病院 棚原分室 1
棚原集落の東、畠地の傍らに遺る半没壕、
緒戦に於いて、師団野病 第二半部の使用した患者収容所跡。
2003年 千原より棚原を経て、この棚原東方の畠地へ踏み込んだのは、とある戦争遺跡、壕の位置を探る為であった。 その通称は棚原野戦病院壕、正式名称を第62師団野戦病院(石5325)棚原第二半部、或いは棚原分院と称し、師団野戦病院 第二半部の掌る患者療養所の事である。 しかしながらこの時は、大した事前情報も無しに軽装で挑んだため、這う這うの体で逃げ帰ったと云っても差し支えはない。 畠のあぜ道を逸れること10数分、背丈ほどの雑草と泥濘に足を取られ、それ以上の捜索は諦めた事を今でも覚えている。
改めてこの畠地を訪れたのは前回より5年が経過、2008年秋口へと歳月は流れていた。 その間、これと云った情報を入手するでもなく、喜舎場へ向かう道すがら、ふと思い出して立ち寄った次第、単なる思い付きである。
思い付きとは云えども、決していい加減なモノでもない。 坂田交差点を経て県道を走行中、件の畠地へ向けて、1台の軽トラックが目前を右折した。 必ずしも適当ではないが、地元(シマ)の情報は地元の方に尋ねましょうね・・、と思い立ち、跡を追う様にハンドルを巡らせた。 ハルサー(畑仕事)を始めたら声掛けも困難であろうから、見失わぬ様に土煙を辿る。 すると農道の突き当たりに車を停め、荷台から籠を降ろしている御仁を発見。 果たして何等かの情報は得られるであろうか、車を降りると声を掛け、足早に近づいて行った。
翁長の農道
県道から至る翁長の畑道。
かつては戦火に傷付いた兵士、そして搬送の防衛隊、師団輜重隊の数多往来した小道であろう。

壕の遺る山嶺
西方(棚原集落側)より望む翁長丘陵の山嶺。

棚原集落の東、畠地の傍らに遺る半没壕、
緒戦に於いて、師団野病 第二半部の使用した患者収容所跡。
2003年 千原より棚原を経て、この棚原東方の畠地へ踏み込んだのは、とある戦争遺跡、壕の位置を探る為であった。 その通称は棚原野戦病院壕、正式名称を第62師団野戦病院(石5325)棚原第二半部、或いは棚原分院と称し、師団野戦病院 第二半部の掌る患者療養所の事である。 しかしながらこの時は、大した事前情報も無しに軽装で挑んだため、這う這うの体で逃げ帰ったと云っても差し支えはない。 畠のあぜ道を逸れること10数分、背丈ほどの雑草と泥濘に足を取られ、それ以上の捜索は諦めた事を今でも覚えている。
改めてこの畠地を訪れたのは前回より5年が経過、2008年秋口へと歳月は流れていた。 その間、これと云った情報を入手するでもなく、喜舎場へ向かう道すがら、ふと思い出して立ち寄った次第、単なる思い付きである。
思い付きとは云えども、決していい加減なモノでもない。 坂田交差点を経て県道を走行中、件の畠地へ向けて、1台の軽トラックが目前を右折した。 必ずしも適当ではないが、地元(シマ)の情報は地元の方に尋ねましょうね・・、と思い立ち、跡を追う様にハンドルを巡らせた。 ハルサー(畑仕事)を始めたら声掛けも困難であろうから、見失わぬ様に土煙を辿る。 すると農道の突き当たりに車を停め、荷台から籠を降ろしている御仁を発見。 果たして何等かの情報は得られるであろうか、車を降りると声を掛け、足早に近づいて行った。
翁長の農道
県道から至る翁長の畑道。
かつては戦火に傷付いた兵士、そして搬送の防衛隊、師団輜重隊の数多往来した小道であろう。

壕の遺る山嶺
西方(棚原集落側)より望む翁長丘陵の山嶺。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
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