2014年05月14日

沖縄県外の戦争遺跡 83

福岡県北九州市 門司港と周辺 5
かつて近代日本の輸出入を支え、
戦地への玄関口ともなった、旧門司港と周辺

軍馬の水飲み場から10メートル程を隔て、同じ歩道の沿いに真新しい石碑が佇んでいる。 石碑には「門司港出征の碑」と刻まれ、「ご存知ですか、先の大戦中、ここ門司1号岸壁から200万人を越す将兵が、はるか南方の戦線にあるいは大陸の戦地へと赴いたことを・・ そして半数の100万人の将兵は、生きて再び故国の地を踏むことが出来なかったことも・・」と続く。 控えめなこの碑は、門司港が広島の 宇品海岸 と同様、戦地への入口であった事を伝えている。 

盧溝橋事件に端を発した日支事変は昭和16年、日米開戦と共に全面戦争へと突入、全国的に入港船舶の減少する中、門司港の入港隻数は全国1位となる。 しかし、その民間商船の数は2,781杯と最盛期の半数にも満たず、代わって西海岸埠頭に並んだ船舶は、ファンネルマークを消した軍の徴用船、戦地への輸送船であった。

翌 昭和17年に関門鉄道トンネル(下り本線)が開通、門司駅は門司港駅と改称され、代わってトンネルの接続する大里(だいり)駅が門司となる。 上り本線は遅れること2年、昭和19年に開通した。 開通より70年を経過するが、単線並列と云う運用が行われ、運行本数の少ない時間帯には、単線として片方のトンネルのみを列車が行き来し、他方のトンネルの修理を行っている。

昭和17年、既に日本近海には敵潜が出没し、外洋では襲撃を受ける船舶もあった。 その為、鉄路を門司入りし、門司港より乗船、船団を組む事が多くなった。 後年、独立重砲兵第100大隊(球18804)は編成地の横須賀より昭和19年7月10日、独立機関銃第17大隊(球5247)は弘前より同年9月4日、何れも門司港を経て沖縄へ向かい、多くの将兵が沖縄の土となった。
また、對馬丸と同型のT型貨物船 富山丸は、宇品より門司を経て那覇へ向かったが、敵潜の襲撃を受け 昭和19年6月29日 徳之島沖にて3本の魚雷を受ける。 船体は2つに折れて轟沈、船員70名、船舶砲兵6名の他、乗船していた独混第44旅団主力、同第45旅団主力の将兵 3,654名が一瞬に海没する。 この戦死者数は對馬丸(1,476名)、軍艦大和(2,740名)のそれを大きく上回る大きな被害であった。 しかし箝口令により被害は極秘とされ、 県鉄糸満線の爆発事故 と同様、沖縄戦に於いて語られる事は少ない。

碑は平成21年に建立され、それまでは 軍馬の水飲み場 以外に、それを伝える物は存在しなかった。 悪く云えば馬にも劣る扱い、レトロを謳う観光地ながら、その暗部を秘めていた訳である。 碑が据えられて5年を経過するが、その前に足を停めるひとは残念ながら少ない。

 門司港出征の碑
平成21年3月15日の除幕、門司港出征記念碑建立委員会により建立される。
沖縄県外の戦争遺跡 83

 西海岸埠頭岸壁跡
歩道辺りが旧西海岸埠頭の岸壁線。
東から1号岸壁と称され、駅通路から吐き出された将兵は、続々と本船の舷梯へと吸い込まれた。
沖縄県外の戦争遺跡 83



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