2016年05月16日
戦世(いくさゆー) 491
糸満市摩文仁 太田一等航空兵の墓
忘れ去られた軍神(その1)
平和祈念公園の一隅に佇む墓碑、太田一等航空兵の墓
とある歌の歌詞には、恰も平穏な沖縄に突如戦禍が訪れたかに表現されている。 しかし昭和12年7月、盧溝橋事件を契機として日中は全面戦争へと突入し、沖縄からも多くの若者が戦線へ駆り出され、白木の箱で帰還する者も少なくはなく、中には遺族の思わざるとに関らず、英霊として祀られる者さえあった。
ここは摩文仁△89高地の一隅、云わずと知れた平和祈念公園の只中である。 しかし、観光や平和学習の団体の絶えぬ各県の慰霊塔群とは距離を隔て、至って閑散とした場所である。 その更に片隅となる、歩廊もない木陰には、場違いとも云うべき古くさい大和墓が佇んでいる。 見れば全身には夥しい弾痕を纏い、石塔の文字は「海軍一等航空兵」で始まっており、先の大戦前、或いは戦中、戦死者を祀るために建立されたお墓であり、石塔の裏面には経緯が刻まれていた。
太田一等航空兵(後の飛行兵長)は鹿屋航空隊 中攻(96式陸上攻撃機)の搭乗員として、第一回渡洋爆撃に参加している。
昭和12年8月14日14時50分、中攻隊18機は台湾北部の松山基地を離陸、台風の荒天を衝いて中国本土へと向かった。 前日に起こった上海での戦火、第二次上海事変に於いて、上海市街は中国空軍の空爆を受けており、中攻隊は敵の基地を叩く事を目的としていた。
鹿屋空の18機は、9機が広徳飛行場、他の9機が杭州近郊の(筧橋・喬司)飛行場へ分かれ、長駆の奇襲攻撃は概ね成功をおさめた。 しかし中攻隊も荒天が災いし編隊が分散、中国軍機の迎撃を受けるなど損害は少なからず、2機未帰還、1機不時着、1機が大破。 太田一空は享年22歳、未帰還の機体に搭乗していたと見られる。
太田一空は、第一回の渡洋爆撃に参加し、そこで県内初の航空戦死者となっている。 未だ戦火は海の向こうの出来事であった時分であり、子を失った親の悲しみを圧して、戦死者を神として祀り上げたと思われる。 昭和20年の敗戦の後、激戦地に遺棄された墓標に見向く者もなかったが、昭和40年12月、空華之塔関係者により、同敷地内に移転、安置される。 しかし同公園の案内には、今以てその存在は記されていない。
太田一等航空兵の墓
沖縄には珍しい内地式の墓(大和墓)、強靭な花崗岩の墓標には、夥しい弾痕が刻まれている。

同 背面
石柱の裏面に刻まれた戦死に至る経緯は、凄まじい弾痕の間に今も容易に読み取れ、そこには武勲のみが淡々と刻まれる。

忘れ去られた軍神(その1)
平和祈念公園の一隅に佇む墓碑、太田一等航空兵の墓
とある歌の歌詞には、恰も平穏な沖縄に突如戦禍が訪れたかに表現されている。 しかし昭和12年7月、盧溝橋事件を契機として日中は全面戦争へと突入し、沖縄からも多くの若者が戦線へ駆り出され、白木の箱で帰還する者も少なくはなく、中には遺族の思わざるとに関らず、英霊として祀られる者さえあった。
ここは摩文仁△89高地の一隅、云わずと知れた平和祈念公園の只中である。 しかし、観光や平和学習の団体の絶えぬ各県の慰霊塔群とは距離を隔て、至って閑散とした場所である。 その更に片隅となる、歩廊もない木陰には、場違いとも云うべき古くさい大和墓が佇んでいる。 見れば全身には夥しい弾痕を纏い、石塔の文字は「海軍一等航空兵」で始まっており、先の大戦前、或いは戦中、戦死者を祀るために建立されたお墓であり、石塔の裏面には経緯が刻まれていた。
太田一等航空兵(後の飛行兵長)は鹿屋航空隊 中攻(96式陸上攻撃機)の搭乗員として、第一回渡洋爆撃に参加している。
昭和12年8月14日14時50分、中攻隊18機は台湾北部の松山基地を離陸、台風の荒天を衝いて中国本土へと向かった。 前日に起こった上海での戦火、第二次上海事変に於いて、上海市街は中国空軍の空爆を受けており、中攻隊は敵の基地を叩く事を目的としていた。
鹿屋空の18機は、9機が広徳飛行場、他の9機が杭州近郊の(筧橋・喬司)飛行場へ分かれ、長駆の奇襲攻撃は概ね成功をおさめた。 しかし中攻隊も荒天が災いし編隊が分散、中国軍機の迎撃を受けるなど損害は少なからず、2機未帰還、1機不時着、1機が大破。 太田一空は享年22歳、未帰還の機体に搭乗していたと見られる。
太田一空は、第一回の渡洋爆撃に参加し、そこで県内初の航空戦死者となっている。 未だ戦火は海の向こうの出来事であった時分であり、子を失った親の悲しみを圧して、戦死者を神として祀り上げたと思われる。 昭和20年の敗戦の後、激戦地に遺棄された墓標に見向く者もなかったが、昭和40年12月、空華之塔関係者により、同敷地内に移転、安置される。 しかし同公園の案内には、今以てその存在は記されていない。
太田一等航空兵の墓
沖縄には珍しい内地式の墓(大和墓)、強靭な花崗岩の墓標には、夥しい弾痕が刻まれている。

同 背面
石柱の裏面に刻まれた戦死に至る経緯は、凄まじい弾痕の間に今も容易に読み取れ、そこには武勲のみが淡々と刻まれる。

Posted by 酉 at 12:00│Comments(0)
│慰霊碑