2015年01月04日

大和世(やまとゆー) 345

南城市佐敷新里 730(ナナサンマル)車
アメリカ世から戦後大和世の狭間を駆けた車輛、
東陽バスの動態保存する730車、日野ブルーリボン RE101

沖縄に歴史的建造物、産業遺産の少ない事は、過去に幾度か 嘆いた 事がある。 しかし戦争遺跡などと同様、世間には広く認知されなくとも、歴史を物語る重要な物が路傍に、或いは路上を行き来していたりもする。
その車輛と行き会ったのは休日の昼下がり、一日橋辺りであったと記憶する。 右折渋滞の停車中、対向車線をピッカピカの旧型バスが通り過ぎて行った。 ミラー越しのナンバーは「沖22」、車体は丸味を帯びたモノコックボディである。 今や絶滅した銀バス(GIN-BUS)など、かつて那覇BTで見たフォルムであり、一瞬ながら非常に印象に残ったものである。 再会したのは数年後、信号待ちの後ろ姿は、やはり只者ではなかった。

地上戦の終結後、米軍政下の沖縄では昭和20年11月以降、自動車は右側通行とされてきた。 しかし本土復帰(S47)より3年後、国は昭和53年7月30日を以て、沖縄県内全域の交通を左側通行へ戻す事を決定。 3年の準備期間に交通教育、インフラの整備を行い、予定通りに実行へと移され、この日ひとつのアメリカ世は沖縄から永久に消えたのであった。

準備に際し、国は道路標識等を整備し、県内では啓蒙活動を実施。 施行日からとった「ナナサンマル」を標語とし、キャンペーンを行った。
道路のインフラは税金で整備され、乗用車・トラックは光軸調整などの修繕によって対応。 しかしバスは、乗降口を右から左へと変更せねばならず、それほど容易ではなかった。 更にバス会社は、既に軒並み赤字経営であり、予定日を以て全車の切り替えなどは不可能。 結果、国庫などから155億円が投じられ、右ハンドルの新車 千台余りが準備・導入された。 この時の新車・後刻の改造車を「730車」と総称する。

東陽バス社の Web-Site に拠れば、同車輛の初度登録年月日は、正に「730」の前日、昭和53年7月29日である。 同社の前身、旧東陽バス社は数多くの730車を保有していたが、それは代替の進まぬ事、資金繰り(H14.民事再生)の難しい沖縄のバス事情を表していた。 それでも他社の中古車を導入し、平成20年までに本「906号車」を除き、同社の730車は全て退役した。 同時期、730車は沖縄バスが1輌を動態保存(H16より)するのみであり、事業譲渡された琉球バス交通・那覇バスでは、既に全車が廃車済みであった。 この様な背景が奏功したか、旧東陽バス社は民事再生中の資金繰りの困難な時期にも関らず、平成21年に同車の保存を決定。 同時に外内装の大幅な修繕が為され、日曜毎の定期運行に就いている。
斯様、民では能動的に行っている訳だが、お役所は相変わらず更新に夢中である。

 試運転中の730車
平日に系統番号を掲げず、与那原の東浜地区で慣熟運転を行う同車輛。
現役の産業・歴史遺産、信号待ちの後続運転席より撮影。(2012年)
大和世(やまとゆー) 345

 留置中の730車
平日は予備車輛として、佐敷新里の本社脇に留め置かれている。
余談だが、同社の社章は関西でお馴染みの「ハグルマソース」の商標に似ている。
大和世(やまとゆー) 345

地図はこちら
※東陽バス(株)本社位置※

東陽バス株式会社 HP  RE101 / 運行予定掲載


タグ :南城市

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