2010年05月07日

大和世(やまとゆー)48

今帰仁村 運天港 海軍基地 1
今帰仁村 上運天と名護市屋我地島 運天原の間に広がる、天然の良港。
古くから海上交通の要衝、泊地として用いられた。

以前も概略を記したが、海軍基地として用いられた運天港について。
港名、並びに周辺地域の名にも存する「運天」の名称。 鎮西八郎為朝が、伊豆大島から逃れた際、時化に難破、「運を天に任せ」て漂流し、漂着したのが此の地、之を地名の由来とする。 換言すれば、琉球を舞台とする「為朝伝説」の玄関口、1100年代半ばの物語とされる。 此の旨を表わした石碑は大正11年に建立され、今も港口を見下ろす丘に佇んでいる。

琉球王国三山時代、北山王は今帰仁城(北山城)を居城とし、交通の要衝と共に行政の要所でもあった。 しかし、1600年代半ば、薩摩軍の琉球侵攻は、ここ運天上陸、今帰仁城攻略から開始され、悲劇の玄関口でもある。 以降、薩摩藩との往来、戦前も奄美、吐噶喇の諸島や本土との流通中心地として栄えた。

運天港と云へば、一般的にはフェリーターミナルの有る、今帰仁村 上運天を指す。 しかし、国土交通省の指定する港域は広く、古宇利島南方から羽地内海一帯の水面にまで亘る。 本土復帰の1972年来、沖縄県の管理する重要港湾と指定され、1975年開催の沖縄国際海洋博覧会を最盛とした模様。 1993年に屋我地大橋、2003年に古宇利大橋が架橋開通し、両島への船便は廃止。 現在はフェリーいへや/フェリーいぜなの定期船二杯が、日に2往復の航海に就いている。

云い方は悪いが、活気有る漁港より、遥かにひなびた体の重要港湾であり、外航船舶の接岸設備も見られない。 定期船は先のフェリーのみで、羽地には、作業船が錨泊しているだけ。
しかし、フェリーの入出港時のみは人が溢れ、伊平屋、伊是名両島への玄関口、本島とは異なる別天地への入口として、のどかな中にも賑わいを見せている。
今はのどかな運天港も、かつては海軍基地が置かれ、此処も南部と同じく戦雲/戦火に包まれて行く。

 出港中の「フェリーいへや」(2004年9月撮)
離岸廻頭し、港口へと進航する本船。 撮影時刻からすると、11時発の便と思われる。
フェリーターミナル周辺は、駐車場、旧ターミナル、運輸倉庫から海側の殆んどが、戦後の埋立て地先である。
大和世(やまとゆー)48

 港口の高台から見下ろす港内旧桟橋位置
戦前の港湾施設は、現在の漁港周辺に設けられていた。 写真中央に、フェリーターミナルの仮桟橋が見えるが、その右手から手前の位置。 木の葉の陰になっている道路沿いが、旧岸壁、桟橋位置にあたる。
ワルミ大橋起工前の景色にして、今は良くも悪くも日々変わり行く。
大和世(やまとゆー)48



タグ :今帰仁村

同じカテゴリー(産業遺跡)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。